2012年5月10日木曜日

違法ダウンロードの刑罰化と〈知る権利〉

おととい5月8日に日弁連が主催した集会「違法ダウンロードに刑事罰が必要?」の動画が Ustream にあって、観ることができます。90分と長い。togetter にツイッターでの実況もまとめられてるので、概略を知るにはそれを読んだ方がよいかも。配布資料をスキャンした PDF は津田大介さんが公開してくれてます

で、90分の話を聴いてみて、論点はすでにほぼ出揃ってるんだなと感じました。あとは判断だけだと。

というわけで、忘れないうちに大事だと思ったことを、自分のためのメモを兼ねて、書いておこうと思います。動画に関連して、でも主にそこで(あまり)言われてないことについて。

まず、これがダウンロードを違法化している著作権法の条文。
第三十条  著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
(一、二は略)
三  著作権を侵害する自動公衆送信(国外で行われる自動公衆送信であつて、国内で行われたとしたならば著作権の侵害となるべきものを含む。)を受信して行うデジタル方式の録音又は録画を、その事実を知りながら行う場合
論点のひとつは、「何が犯罪か」が明らかかどうか。(動画の中に、罪刑法定主義とか構成要件という専門用語で出てくる。)それが明らかに規定されていて、それに合った場合しか罰してはならない、という原則があります。

ある人の行為が「著作権を侵害するアップロードと知って、それをダウンロードする」だったか、それは確かに白黒つけられます。調べれば。でも私はこの規定、ダメだと思う。

動画内では、「その事実を知って」かどうか判定する前に逮捕状が出されざるを得ない、というようなことが言われてる。それも確かに大問題。さらに、容疑の段階でHDDが押収され情報の出どころが調べられかねない。これも大問題。まるで違法な文書を入手した疑いがあるからと自宅の本やノートを一切合切押収されるようなものです。

でもそれ以上にこの規程が問題だと私が思うのは、あるアップロードが「著作権を侵害する」ものであったかどうかは、裁判によらなければ最終的に決まらない、つまり個人がその場(ダウンロードという行為をする時点)で到底判断できるものじゃないってこと。

個人が行為をする時点で分からないものを犯罪の要件にしたら、何が犯罪か明らかじゃないでしょう。例えば、食料の違法な取引(というのがあるとして、それ)を阻止するために「違法に売買された食材を使った料理を食べたら罰する」なんて法律が作られたら、外食なんかできない。判断のしようがないんだから。

「(国外で行われる自動公衆送信であつて、国内で行われたとしたならば著作権の侵害となるべきものを含む。)」の部分なんてさらに判断できない。外国で、その音楽や動画がどのような経緯でアップロードされたのか分かるはずもないし、それについての裁判は行われないんだから、著作権侵害かどうかが最終的に決まることもない。

多分この規程は、「無料コンテンツは基本的に違法コンテンツである」という前提で作られたんでしょうね。松田政行弁護士の話からもそれが分かる(59:55くらいから)。「無料違法コンテンツ」をダウンロードするソフトの話…ソフトが、とあるネット上のコンテンツが著作権法的に違法かなんて判断できるはずがないよなぁ。そして1:00:15から、クローリングして利用者が所望する「無料コンテンツ、まあ違法コンテンツですね」と言っているし。

つまり立法者の考えはこうなんでしょう。「ネット上にある音楽と映像はそれが無料ならば違法と思えばいい。基本的に、無料コンテンツをダウンロードしなければいいのだ。」

だとすれば、もしもサイトに「合法です」と書いてあっても、恐くてダウンロードできない。自分のダウンロードが犯罪かどうかは、サイトについて裁判が終わるまで分からないのだから。そしてそれは、有料コンテンツだって変わりない。有料だから合法だとは言えないからね。

結局、何らかの意味で「信用できる」サイトからしかダウンロードできない。その「信用できる」サイトがたまたま著作権法に反してコンテンツをアップロードしたら…ダウンロードした私も犯罪者。あれれ。(訂正。犯罪者にはならないですね。違法アップロードかやっぱり判断できない、ってことで。)

しかし YouTube にも Ustream にも合法無料コンテンツなんていくらでもあるのになぁ。てかこの市民集会の動画がまさにそうじゃないか。これが違法アップロードでないって誰が判断できるんだろう。私には自信がない。松田先生、いかがですか?(笑)

ついでに。松田弁護士は0:45から1:05まで「なぜ自分は民事違法化賛成、刑事違法化反対か」を説明していて、大量ダウンロードツールの販売に対して賠償請求ができることは一定の社会的正義があると考えたから、と言ってるけど、ならばそちらを違法化するべきだったと私は思うし、実際の賠償請求を想定しなくても個人のダウンロードを著作権侵害と規定していることには変わりない。

で、そもそも個人のダウンロードを著作権侵害とすべきなのか。

松田弁護士は著作権法の「私的利用自由の原則」について説明してる。小倉弁護士は19:00くらいから「知る権利」との関係を話してる。面白いことに、松田弁護士の資料を見ると(15-16/64ページ)「個人生活の中に法は入るべきではない」とか「文化、情報に関する著作権法は、できるだけ個人の自由を保障すべきである」とは書いてるけど、はっきり「知る権利」とは書いてないんだな。

やっぱり私はここが一番のポイントだと思う。

著作権が重要な権利であれば、私的複製は禁止されてもいいはず。でもなぜ私的複製が許されるのか。それは、より強い権利、つまり基本的人権が存在して著作権を制限していると考えるのが自然だと思うのだ。

知る権利」という言葉は、いろいろな意味で使われるし(政府が持ってる情報を要求する権利という意味)、それだけでは権利の内容がよく分からない(いくら「知る権利」って言ったって、他人が知ってる情報を何でもかんでも「知る権利」なんてない…それはむしろ他人の内心の自由を侵害する)。

そこで私は、著作権(とか児ポ法)との関係では

「自分が触れた情報を取得し保持する権利」

を人権として考えるといいのではないかと思ってる。この(ウィキペディアの説明によると「消極的な」)自由権をここでは〈知る権利〉と呼ぶことにします。ここで情報に「触れる」とは、システムに侵入して盗みだすとか他人の家に盗聴器を仕掛けるとかの違法な行為によるものは当然含まず、あくまで行為そのものとしては問題ない行為で情報に接することを意味します。

ここで大事なのは、対象となる情報がどんなものかによらず〈知る権利〉を認めるということ。そこで対象となる情報を限定できると、公権力に都合の悪い情報を制限できるようになるので、人権という考え方に合わないから。

なお、普通は「知る権利」に含まれる、国家が持つ情報を国民が要求する権利は、私がここで言う〈知る権利〉には含まれません。このような情報要求権を自由権に分類するのは無理があると思う。

なぜ〈知る権利〉を人権としてよいか。私はこれは、思想の自由から自然に導かれると思う。情報が得られなければ思想など持てない。得られる情報が制限されるなら思想の自由なんてない。よね。

では〈知る権利〉は制限されてよいか。表現の自由が例えば名誉毀損罪や侮辱罪になる場合には制限されるように、〈知る権利〉も制限される場面があって不思議はないと思う。ただし、〈知る権利〉が人権であるならそれはとても強い権利なので、他人の人権と衝突する場合に公共の福祉によるか、名誉毀損や侮辱のように他者に損害を与える場合―いい例が思い浮かばないけれども―に制限するに留めるべきだと思う。表現の自由や言論の自由その他の人権と同じように。

それともうひとつ。公権力と関係なく、私人の間で自由に契約が行われるなら、その契約は守られなければならない。例えば、中で写真を取らない録音をしないという条件で、ライブ会場に入れてもらう場合とか。

さて、いま仮に、「違法ダウンロード(=違法にアップロードされたものをダウンロードすること)」を禁止する規定をこれから作ろうとする時点に戻ってみる。〈知る権利〉は、違法でない行為でどのような情報でも取得する自由を言っている。だから、違法ダウンロード禁止が是か非かは、〈知る権利〉と著作権の間の調整だったはずなのだ。

〈知る権利〉は人権。片や著作権は、文化振興のインセンティブのために、誰かに利益を与えるための権利。このふたつの権利が衝突する時に、前者を制限することは妥当だろうか。

この制限は例によって2段階で行われる。まずは罰則なしの違法化、次が刑罰化だ。

第1段階、罰則なしの違法化―これは最近よくある手で、私はこのやりかた自体が罪刑法定主義に反する脱法行為(いや、脱憲行為と言うべきか)だと思ってるんだが―によって損害賠償責任を負わせたこと。松田弁護士は個人に対する請求権は想定していなかったというようなことを言ってるけど、日本が法治国家なら、この規程は明らかに違法ダウンロードした個人に損害賠償責任を負わせるものだ。そう書いてあるから。なら、人権である〈知る権利〉を行使した個人が、他者の人権との調整でもなく、契約にもよらずに、損害賠償責任を負うってことだ。著作権は、そこまで強い権利なのか。

第2段階、刑罰化。これは、〈知る権利〉がもともと公権力に対する人権である(と見なした)ことから、明らかに人権侵害だ。

また長くなりましたが(汗)、まとめるとこんな感じ↓です。
  • あるコンテンツが違法アップロードされたものかどうかを、ダウンロードする人が判断するのは困難である。ダウンロード違法化の規定は、形の上では構成要件を明確に示しているように見えるが、行為者がその時にはっきり判断できないので、罪刑法定主義に照らして疑問が大きい。
  • 著作権法に例外として規定されている私的複製の許可は、〈知る権利〉という人権からの要請と考えると自然である。
  • 〈知る権利〉は思想の自由から自然に導かれる。
  • 〈知る権利〉が人権だとすると、ダウンロード違法化は著作権を強め過ぎだし、刑罰化は人権侵害なので許されない。
逆にもし〈知る権利〉が人権でないとするなら、著作権という権利を制限する理由はほとんどないと思うんですね。私的複製はどんなものであろうが全て罰則付きで禁止していいはずだと。そして、権利者は権利を主張し、ネット民と日弁連はそれに反対し、その力関係と多数決だけで落とし所が決まるだけだと。

だから私は、そこに〈知る権利〉を置いて、

私的複製は〈知る権利〉の行使、つまり基本的人権の行使である

と見なしてみたい。だからと言って私的複製は無制限に許されるべきといきなり主張するわけではありません。でも、このようにそこに人権があると認めることで、話が権利の間の調整になる。それによって、それぞれが自分の利益のために主張する声の大きさで決まるという望ましくない決め方を避けられるといいなぁと思うのです。

そういや電波法とか電気通信事業法とかでも、通信の傍受はたしか禁止されてなくて、それを漏らしたりすることが禁じられてたと思うなぁ。最近関わってないけど。ここらへんとも〈知る権利〉は一貫してると思う。

というわけで、あとは判断するだけだと思うんですが、どうでしょう。〈知る権利〉は人権である。私的複製は〈知る権利〉の行使である。この2つを私は主張してみましたが、皆さんはどう思いますか。