2012年12月8日土曜日
Git のチュートリアル電子書籍を書きました
2012年10月27日土曜日
民主主義への疑い
独裁制でも、独裁者が良ければ、いい政治になる。でもそうとは限らない。特に、独裁者が自分の欲のために権力を使えば(それはとてもありそうだ)、いい政治にはならない。だから独裁制はよくない、と民主主義者は言う。でも、民主制のもとで、あるとき生きている人が自分たちの欲のために権力を使ったおかげで(それは実際にあった)、原発が推進され、事故が起き、そのときどきで意思決定権を持たなかった人々(これから生まれる人々を含めて)に害をなしたのではないか。
独裁者の欲と庶民の必要が対立するときに独裁者の欲が優先されるのがいけないなら、いま生きている人の欲と後世の人の必要が対立するときでも同じだろう。どうして民主主義が独裁制よりよい制度だと自信を持って言えるんだろうか。まだ生まれていない人は、いまの民主主義をどう見ているんだろう。
どうやって我々は、後世と平等な意思決定が民主主義のもとでできるんだろうな。それを我々に期待するのは、独裁者に良い政治を期待するのとそんなに変わらん気がする。
2012年9月24日月曜日
Ergohuman PRO 使用感
http://www.ergohuman.jp/products1.html
http://officechairs.jp/brand/ofix_eh/ergohuman_pro/
結論から言って、費用対効果は十分によいと感じている。細かいところで不満はあるけど、いくつか試しに坐った椅子の中で、この値段(7万円台)でこれならば全く文句はない。素材はエラストメトリックを選んだ。
いいところ。ランバーサポートが効いている。昔、軽い椎間板ヘルニアをやったことがある。このサポートは楽に感じる。
ヘッドレストが意外に使える。基本、作業中は使わないかなと思ったけど、たまに使いながら仕事をすると楽な時がある。
肘掛けの左右移動。私は細い方なので、一番狭い位置に動かして使っている。これがなかったら肘掛けは有効じゃなかったかも。
素材のエラストメトリックもなかなかいい。まだ暑い時期から使っているが、蒸れない感じはした。
あと、重さがあるので安定感がある。椅子には重さが必要のようだ。ただ、階段で2階に上げるとなったらひとりでは難しそう。そのくらい重い。仕様書によれば28kg。
不満なところ。肘掛けがもう一段下がってほしかった。私は上腕が長いので、この調整範囲だと一番下げてぎりぎり合うかどうかってところ。
座の高さももう少し下がってほしい。私は日本人的には標準くらいの身長のはずだけど、一番下げてリクライニングなしでようやく裸足で床に足がつく。リクライニングが後傾位置(私がノートPCで作業をするポジション)だとかかとがつかない。そのため、足置き台を自作した。
足置き台の手前はもっと薄くできればよかったな。
あと、リクライニングのロック位置が粗くて4箇所しかない。下の写真の位置。
私が止めたいのは、1番目と2番目の間なのだが、そこではロックできない。仕方なく2番目の位置で使っている。
それから、肘掛けの前後移動、左右移動が摩擦だけで止まっているようで、たまにちょっと力をかけたときに動いてしまう。経年変化で摩擦が減った時にどうなるかやや不安。
…とまあ、不満をたくさん挙げたけど、総合的にはよい買い物をしたと思ってる。
以下、今回の椅子選びについて。
足置き台を使わないとしたら、椅子の高さが下腿(すね)の長さで決まり、その着座の高さと上腕の長さから机の高さが決まる。これは動かしがたいということを身をもって経験した。いま座面高はおよそ45cm、机の高さは66cm。事務机の標準高は70〜72cmだそうだが、私には高すぎる。
日本オフィス家具協会:JOIFAは、事務机の高さ720mmを推奨いたします。
今回はたまたま引越し後で、椅子も机もなかったので、椅子を先に選んだ。このやり方は正解だったと思う。まあ、椅子がなんであれ座面高から机の高さは決まるんだけど。そうでなきゃ足台を導入するしかない。
試し座りはWORKAHOLICに行った。椅子がどっさりあるというわけではなかったので、世界でもっとも自分に合う椅子を探すなら少ないけど、坐った時にこの椅子がよかったし値段も私の感覚では妥当と思ったのでここで決めた。そこにあるいろんな高さの机と合わせて坐ってみて、机の高さにもあたりをつけた。巻尺を持って行って。
椅子は靴と同じで、年中体に触れて使うものだから、1万円強の机と7万円台の椅子になったことも妥当かなと思っている。
2012年9月20日木曜日
ネトウヨって誰なのか
尖閣購入で都が寄附を集めたらネトウヨが大量に寄附して、みたいな話がついったーであった。石原さんの出現も、ネトウヨの寄附も、因果関係を見ないと、誰を非難してもしょうがないなぁとか思ったんだけど。
それよりもネトウヨって人じゃなくて行動様式だよなぁと思って、仕事終わったあとの眠い頭でぼーっと考えてた。
ネトウヨって、中韓を嫌って、排外主義で、差別主義で、国家神道を崇めてて、改憲論者で軍備を進めたがってて、2ちゃんねるを使ってて、ついったーアイコンに日の丸つけてて、で今回だと(お金に余裕があれば)都に寄附して、尖閣に自衛隊を駐留させるべきだと主張する、みたいな感じだと思う。
ネトウヨじゃない人は、中国韓国とも仲良くやり、多文化共生をよしとし、差別は人権侵害だから悪くて、特定の宗教を強く信じることなく、護憲論者で平和主義で、2ちゃんねるなんか使ってなくて、ついったーアイコンに日の丸なんてもちろんついてなくて、今回の石原さんの尖閣購入への動きは望ましくないと思ってて、尖閣に自衛隊なんてとんでもないと思ってる。
でさあ、尖閣購入に寄附したら、ネトウヨ呼ばわりされてしまうんだよ。たとえ自分が改憲論者でなくても、ついったーアイコンに日の丸がついてなくても。あるいは、他のすべてがネトウヨ的じゃなくても、ついったーアイコンに日の丸がついているだけでネトウヨと言われるんだ。
つまり、ネトウヨとは、「ネトウヨじゃない人」と行動や考えが少しでも違う人のことなんだよな。そして「ネトウヨじゃない人」の行動様式は、教育とマスコミが良しとする人間像そのもの。
多分、人をネトウヨ呼ばわりする人は、ある人間が総体としてネトウヨ属性を持っていると考えてるんだろうけど、ためしに「この人がネトウヨだ」という人を連れてきて、ネトウヨ的要素のすべてをチェックしてみたら面白いんじゃないかな。
ネットができて、それが価値観の多様性に貢献し(というか情報統制から離れることを可能にした、と私なんかは思うんだけど)、さらにひとりの人間が見えにくくなった。ネットの出現によって必然的に「ネトウヨが現れた」ってことなのかも。
でもさあ、それで多文化共生とか、可能なのかね。日本人の「ネトウヨ」の方がよっぽど行動様式が自分に近いと思うんだけど。
2012年8月31日金曜日
Apple TV にアナログ音声機器をつなぐ
まとまった情報が見つからなかったので、メモを兼ねて。
Apple TV は、簡単に言うと、テレビをネットに繋ぐセットトップボックスです。独立した音声出力があるので、アナログアンプのある仕事場で AirPlay で音を鳴らすために買ってみました。AirPlay は、iTunes や、iPhone / iPod / iPad から音楽を Apple TV で鳴らす機能。それで鳴るまでの紆余曲折です。
Apple TV の音声出力は光デジタルなので、それを RCA のアナログステレオ出力に変換しなきゃいけない。アマゾンで見たら DCT-3 というのが良さそうだったので買った。
コンパクトな AC アダプタがついてる。
Apple TV 付属のケーブルは電源ケーブルだけなので、光オーディオケーブルも買った。長さはあまり必要ないのでとりあえず1mで。
Apple TV が届いて取扱説明書を見てみると、最初にテレビをつないで設定が必要らしい。USB の口はあるが、出荷時の状態に復元するためのもののようだ。無線でも設定できなそう。というか、無線ネットワークにセキュリティがかかってるんだから、考えてみれば当たり前だ。パスワードとか入れられなければ繋がるわけない。
Apple TV の映像(+画面)出力は HDMI。うちのテレビ Sharp AQUOS LC-32GD4 は8年くらい前のもので HDMI 端子がない。でも幸い DVI-I 入力はあるので、HDMI - DVI-I 変換ケーブルを買って繋いだ。
PLANEX のもあったけど、こっちの方が3mあってお得感がある。AmazonBasics というシリーズは知らなかった。HDMI 入力があるテレビとかで設定するならこんなのがある。やたら安い気が。
このケーブルと、RCA-ミニステレオプラグケーブルを使って、Apple TV とテレビを繋いだ。ちゃんと絵も音も出て、設定もできた。無線ネットワークの設定には文字入力が必要だが、それは付属のリモコンを使って画面上で(ゲームの自キャラ名設定みたいに)入れる。AirPlay には、無線ネットワークとは無関係のパスワード(Apple TV と iPod とかの間で交わされる合言葉みたいなもの)を設定する必要がある。バレても勝手に音楽が鳴らされるくらいの影響しかなさそうなので、簡単なものを設定した。
さて、設定した Apple TV をテレビから外し、電源ケーブルを抜いて(電源スイッチはない)仕事場へ持って行き、アンプに繋ぐ。繋ぎ方は、アンプRCAステレオ端子―変換器RCAステレオ端子、変換器光オーディオ端子―Apple TV 光オーディオ端子。あとは変換器と Apple TV の電源をコンセントに差す。
Apple TV の状態は、前面の白色 LED で分かる。点滅は起動中、点灯が正常動作中みたい。点灯したら、アンプのスイッチを入れて、iTunes なら右下のテレビだかスピーカだかの印がついたボタンで Apple TV を選ぶ。iPhone とかならミュージックアプリで再生してからスピーカーを選ぶ。さっきの合言葉を入れると、めでたく鳴った。
2012年7月7日土曜日
違法ストリーミングでの動画視聴も違法化する方法
現行著作権法でできるやり方を考えた。複製とは、第二条の定義によれば、「印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製することをい」う。ハードディスクにダウンロードすることも、「その他の方法により有形的に再製」してるなら、ストリーミングの動画を視聴して頭の中に入れることだって「有形的に再製」と呼べるのでは。(むしろ「有機的」?) だからストリーミングを視聴するのは複製行為だ。
頭の中に入れたものは、歌詞だって、メロディーだって、技術があればアニメ30分だって、もう一度作り直せないこともないよね。そうやって作り直したものは、権利者の利益を損なう恐れがある。いい理由だ。これで、違法ストリーミングを視聴することで頭に入れることを、私的複製の範囲から除外して、違法化できる。やったね。
マジレス勘弁ね。
情報の本質って、複製だと思うんだよね。誰かが知ってることを誰かに伝えるとき、元々持ってた人の頭の中からその情報が消えるわけではない。ならば情報伝達とは、複製の一種だ。敢えてメディアを廃棄するなどの行為をしない限り。いや、廃棄したって頭の中から消すことはできない。
そして、もし情報伝達が複製でなければ、著作権なんて不要だ。情報複製のコストが低いから著作権なんてものが必要になったんで。
コピーライトはもともと、「海賊版」を出す印刷業者を規制して「正規の」印刷業者の利益を守るための仕組みだったようだ。当時はディジタル技術がもちろんないので、複製といえば本を印刷することであり、印刷機など持たない一般人はせいぜい手書きくらいしかできなかったろう。そもそも、売る以外に、自分で同じ本を複製する理由など考えられない。だから、複製とは売って利益を得る目的の行為であり、複製を禁止することは「正規の」印刷業者の利益を守ることに直接つながったんだと思う。
今は違う。私が仮に音楽 CD の内容を CD-R に焼くとしても、その目的は売るだけではない(てか売らないし)。例えば、炎天下をよく移動する車にオリジナルの CD を置いたらジャケットもディスクもかわいそうだから、車では CD-R で聴くとか、そういう用途だってある。あるいは、自分で紙で持っている本を、iPad でも読みたいからスキャンする。こういう複製があり得る。つまり、昔は成立しただろう「複製=売るため」という等式が、今は成立しない。
ならば、本の時代は適切だったと思われる複製権の独占は、今の時代に合っているんだろうか。
著作権法における「複製」という言葉の意味は、日常生活での意味から離れている。
少なくとも私の国語感覚では、複製とは、ここにいま本が1冊あり、それと同じ本を例えば1冊作ることだ。印刷時代の本の印刷は、だから複製である。いや、本を作らなくてもいい。持ってる本を、スキャンして PDF にする。これも複製だ。
しかし著作権法では、上で引用したように、何らかの方法で情報を有形的に再製することをすべて複製と呼んでいる。テレビ放送を自分のハードディスクレコーダに録画することも、複製になる。テレビ画面を写真に撮ることも、きっと複製。
情報の本質が複製であり、情報伝達が原理的に複製だとすれば、複製権の独占とは、情報伝達の独占ということになる。これ、第四十九条が如実に示している。
第四十九条 次に掲げる者は、第二十一条の複製を行つたものとみなす。これ以下7項目、およそ普通に考えて「複製」とは思えないものが複製と見なされている。全ての項目に「複製」や「録画」という言葉はもちろん入っている。当たり前だ、何をしようとしたって、創作者が最初に作ったもの以外は、全てその情報の複製なんだから。
思考実験で、複製権が本当に権利者に独占されている状態を考えてみた。つまり、第三十条の私的複製が一切許されてない状態。私的複製が、特に積極的な権利でなく例外であって、ダウンロード違法化のように状況によって好きに制限できるならば、私的複製の全く許されてない状態が、著作権あるいは著作権法が想定している基本的な状態だろうから。
すると、情報の受け手は、著作物を見たり聞いたりすることはできるが、それについて一切の記録を手元に残してはならないことになる。加えて第四十九条で、情報を提供する行為も(複製と「見なす」ことにより)権利者に独占されているので、人に伝えることもできない。
ある情報について、正確な知識を個人に与えず、それを受け取り、あるいは伝えることを権利者が独占する。逆に言うと、個人は、権利者が指定する形態で与えられる情報を、記録を取らずに受け取ることだけが許される(それも複製と見なしたら、ってのが冒頭の駄文w)。著作権法の大枠は、こうなっているみたいだ。まさに、情報に対する所有権だな。
そして、私的複製の範囲はどんどん狭められている。
元々、海賊版業者による印刷(すなわち販売)を止めることが目的だったと思われるコピーライトが、どうして特定の情報が複製されたり受け取られたりすることを情報の「所有者」がコントロールできる「著作権」に変わってしまったんだろう。
こういう「情報の私有」と、著作権法が謳う「文化の発展」は、どうもうまく整合してる気がしないんだよな、私は。
2012年7月3日火曜日
音楽ビジネスの発展を妨げる著作権法の仕組み
そんなの正直言って分からない。科学の実験と違って、禁止した場合としない場合で、その他の条件を完全に揃えて試すわけにいかないし。それに社会の状況は常に変化している。
でも、著作権法自体に、それを明らかに妨げる仕組みが入っているとしたら…
どうもそうなんじゃないかってことに気づきました。音楽ビジネスが発展しない仕組み。
一応私、著作権法に関する問題はずっと気にしてるつもりですが、これまで聞いた覚えがないので、書いてみます。(とは言え、最近記憶力に自信がない。忘れてるだけだったりして…)
2012年7月4日補足:以下、「原盤権をレコード会社に渡す」などの表現は、「原盤権をレコード会社が持つことにする」などと読み替えて下さい。原盤権は、録音した時に発生する権利で、録音前に著作者や実演家などが持っているものではないからです。詳しくはコメントでの議論をご参照下さい。
特許はなぜ問題になってないんだろう
突然ですが、特許の話です。
著作権も特許権も、まとめて「知的財産権」と呼ばれたりする。だから著作権と特許権は似たようなものだ。
いいえ、それは大間違いでした。実は著作権と特許権は、ほとんど正反対の効果を持っています。音楽ビジネスに関しては特に。ってことに気づいた。多分。
特許は、簡単に書くとこんな制度です。(参考:特許法)
いいアイディアを思いついた人が特許を取り、特許権を持つ。特許権者はそのアイディアを実現して(特許を「実施する」と呼ぶ)お金を儲ける権利を一定期間独占します。
特許権者は、特許を実施する権利を他人に与えることができます。与えるのは「実施権」です。たとえばあなたがとても役に立つ発明をして特許を取ったら、メーカーにその特許を実施してもらってお金をもらうこともできる。
もしも複数のメーカーが、あなたの特許を実施したいと言ってきたら、対価(特許使用料)の額など、一番条件のいいところに実施権を与えればいい。ここでメーカーの間に競争が働きます。もっとも低コストで、もっとも利益を上げられるメーカーが、一番いい条件をあなたに提示してくるでしょう。
実施権の与え方も、どこかのメーカーに専用させて高い使用料を取るか、いくつかのメーカーに与えるか、その期限はどうするか、契約でいろいろにできる。(参考:溝上法律特許事務所 事務所報 論説~特許権の実施契約について~)
さて、著作権をめぐるごたごたは長々と続いていて、コンピュータやネットが一般的になってからは普通の人の生活を刑罰で脅かすまでになっています。
しかし特許については、ビジネスモデル特許が一時期話題になったくらいで、大して問題にもなってません。それどころか、発明は今でも私達の生活を豊かにし、そこにはきっと発明を実施するための手段としてコンピュータやネットが役に立ってるはず。
どうしてこんな違いが出るんだろう。
音楽に関わる著作権
現在の音楽ビジネスの主流は、まず演奏を録音して、それを複製するなりネットで配信するなりして儲ける、というやり方ですよね。ライブもあるけど、儲かる額はだいぶ少ないはず。あとは、楽譜を売るとか、音楽を演奏するソフトウェアを売るとか…これらは主流にはとりあえずならなそう。
というわけで、音楽で儲けようとする人は、何はともあれ音楽を演奏して録音し、CDや音声データ(著作権法の用語で「レコード」)にする必要がある。話を簡単にするために、歌詞のないインストゥルメンタルの曲だとします。ここで少なくとも3種類の人が関わってくる。
- 作曲した人。著作者であり、著作権を持つ。
- 演奏した人。実演家と呼ばれる。著作隣接権として定められた実演家の権利を持つ。
- レコードに録音した人。レコード製作者と呼ばれる。著作隣接権として定められたレコード製作者の権利(通称「原盤権」)を持つ。
それぞれの人が、例えばCDの譲渡についてどんな権利を持つかと言うと。
- 作曲者:著作物を、複製物の譲渡により公衆に提供する権利を専有する(第二十六条の二)
- 演奏者:実演を、その録音物又は録画物の譲渡により公衆に提供する権利を専有する(第九十五条の二)
- レコード製作者:レコードを、その複製物の譲渡により公衆に提供する権利を専有する(第九十七条の二)
「専有」って分かりにくい。それぞれが個別に権利を持つってことらしいです。
この3つめの権利、原盤権に含まれるわけですが、この権利のおかげで、レコード会社は自らがレコード製作者となって原盤権を得ることで、いくらでもCDを作って売れる。
音楽業界では当たり前の話なのかな。でも、原盤権をレコード会社に渡さないアーティストもいるらしいし。
特許と比較してみる
特許では、発明者が特許権を持ち、実施者に実施を許すことで、実施者間で競争させることができる制度になっています。それによって、発明を促し、発明の有効利用を図っている。同じことが音楽で起きるか見てみます。
文化を作るのはまず創作者です。ここでは作曲者だけでなく、演奏者も創作者に入れることにします。(同じ曲をうまい人が演奏した場合と下手な人が演奏した場合では文化的貢献は違うと考えて。)そして、創作者に利益を与えることで、創作を促し、創作物の有効利用を図る、と。悪くないよね。
著作物に関しても、特許における実施者と同じように、創作者の創作を、実際に役に立つ形にする人が必要だ。具体的には、演奏を録音し、配布する仕事をする人が必要。それがレコード会社だ。発明者と実施者の関係になぞらえて、創作者と実施者(=レコード会社)という関係があると言える。
ここで、特許と著作権の大きな違い。特許制度が発明の内容そのものを保護するのに対して、著作権制度は表現されたものを保護します。だから上に書いたように、音楽を売るには何はともあれ演奏を録音しなきゃならない。
しかし、録音した時点で原盤権をレコード会社に渡すと…
著作権法は、著作者や実演家と分けてレコード製作者を規定しています。レコード製作者が別の人であるとは、原盤権をその人に渡すということ。著作権法は、原盤権が著作者でも実演家でもない「レコード製作者」(レコードを複製して公衆に譲渡する権利を与えているので、きっとレコード会社)に渡されることを想定している。
…原盤権をレコード会社に渡すとどうなるか。その録音(レコード)の複製権や譲渡権はレコード会社が専有することになる。だから、同じ録音を他のレコード会社なりネット配信会社に渡して売ってもらうことは、著作者にも実演家にもできなくなる。
つまり、特許制度とは違って、実施者間の競争が働かない仕組みを著作権法自身が規定してしまっている。
例えて言うならこう。あなたがとてもいい構造の自転車を発明した。その発明を実施してもらうために、設計図をメーカーAに渡してステンレスで作って売ってもらった。そのうち科学技術が進み、カーボンファイバーが得意なメーカーBが現れたので、そこに作ってもらおうとしたら、設計図をメーカーAに渡した時点で特許権も渡したことになっていた…
これでは、よりよい材質で特許は実施できない。技術は進まないし、消費者への特許の恩恵はメーカーAが商品を作った時点で止まってしまう。
同じだよね。あなたがとてもいい楽曲を作って演奏した。それを録音する時に、レコード会社に原盤権を渡して、CDにして売ってもらった。そのうち技術が進んでネット配信ができるようになった。ところが録音を複製したり配信したり譲渡したりする権利はレコード会社が持っている。あなたの録音は、その会社が考えを変えるまで、CDでしか売られない。いや、売る気がなくなったらどんな形態でも売られない。
録音にお金がかかるから録音した人に著作隣接権を与える。理由としては妥当な気もします。でも特許に置き換えてみて。特許の実施にだってお金がかかる。青色LEDを製造するのにどれだけの金がかかるか。それを低コストで利益が出るように実施できる人が、実施権を得て、利益を得て、その利益を発明者に還元するんだよね。音楽でそれができない理由なんてあるのかな。
作曲者や演奏家が録音についての権利を保持するという前提で、もっとも良い条件で録音させてくれて、一番利益を上げてそれを作曲者や演奏者に還元してくれる会社が、著作権を「実施」する権利を作曲者や演奏家から託される。CDよりも利益の上がる配信方法があれば、それを採用する会社が有利になる。これなら競争が働くんだけどなぁ。あるいは競争によって、安く良い録音をさせてくれる業者と、低コスト高利益で配信する会社というように、分業が進むかも知れない。
著作隣接権の別の理由として、レコード会社に権利を与えることによって、さらなる利用が楽になり、普及に貢献するのだとも言われます。ちょっと前にあった、電子出版を普及させるために出版社に著作隣接権を与えるかどうかの話のときもこれがポイントになってた気が。
でもほんとかな。著作物はさまざまな利用方法が可能なはずで、特定の一社に排他的な権利を与えるなら、別の利用方法が阻害されるんでは。てかそれを我々は音楽について目の当たりにしてるのでは。
まとめ
今回の話では、作曲者・演奏者・レコード会社の三者だけで考えました。実際の音楽ビジネスでは、いろんなプレーヤーの役割や権利が複雑に絡み合ってるので、単純化しすぎと言われるかも知れない。でも、そこに現れるプレーヤーそれぞれの権利を著作権法は定めていて、それらの権利を与える前提として著作権法が想定しているビジネスの大枠は、確かに上に説明した通りだと思う。すなわち:
特許が実施者間の競争を促す制度になっているのに対して、著作権法は逆に著作物を特定の実施者(レコード会社)に独占させるようになっている。だから競争が起きず、同じ著作物を使った新しい技術の利用が阻害され、コスト削減やより役に立つ使い方ができずにいる。
とりあえず音楽に限ってはこういう観察が可能だ、というのが今回書きたかったことです。
違法DL刑罰化に関連して、コンテンツ産業が技術の進歩に合ったビジネスができてないって批判を聞くけど、その大きな原因のひとつが、競争を妨げている著作権法自身の規定じゃないか、と。
これが正しければ、「レコード製作者」に現在のような著作隣接権を与えているのは、著作権法の目的である「文化の発展」を逆に阻害していると言えます。
もちろん原盤権を渡さない契約も法律上は可能だけど、きっと力関係で、原盤権を渡す契約にサインせざるを得ないんじゃないかと推測してる。だったら著作権法は弱い方を守らなければいけないのでは…?
ちなみに著作権法は、放送事業者にも同様の著作隣接権を与えています。てことは!
関連サイト
クリエイティブビジネス論|著作権は20世紀エンタテイメント産業の副産物〜違法ダウンロード罰則化が成立しちゃった〜この↑記事の重要な指摘は、(私の言葉で書くと)「著作権には、創作者の権利と、複製者の権利がある。いま問題になっているのは複製者の権利の方ではないのか?」。
著作権がもともと印刷業者のための制度だったのは本で読んで知ってたつもりだったのに、これ読んで初めてその重要性に気づかされました。そして、そして自分自身、あまり納得できずに20年ほども付き合ってきた著作権の意外な実体が見えてきた気がしてる。
今回の話はその一部です。他のこともそのうち書ければと思ってます。まだまだ勉強中。いかんせん全体が巨大で現実と絡み合ってて…今回は何とか切り出してまとめたって感じ。
今回の話の冒頭、「特許権と著作隣接権が正反対の効果」と書くべきだったかも知れないけど、いつか全体像を書く日のために、あえて「特許権と著作権が正反対の効果」と書いたままにします。
関連書籍など
- 福井 健策:「著作権とは何か」、集英社新書、2005年
- 著作権法専門の弁護士さんで、著作権の基本をたくさんの実例を交えながら丁寧に説明しています。
- 福井 健策:「著作権の世紀」、集英社新書、2010年
- 同じ著者による5年後の本で、著作権をめぐる状況の変化と今後について、やはり豊富な実例を使って分かりやすく解説しています。著作権そのものの説明はほとんどないので、ある程度わかっている人向け。
- 岡本 薫:「著作権の考え方」、岩波新書、2003年
- 元文化庁の著作権専門家による、著作権とそれに関連する状況の解説。新書にしては重厚な内容で、専門書に近いくらいの読みごたえがあります。「中の人」視点で書かれた、日本や他国(特にアメリカ)の動きや、著作隣接権の話が興味深い。著作隣接権は、単に政治力の強い業界に与えられてるだけって、ぶっちゃけすぎだ(笑)。でも今回私が書いたことと深く関係しそう。
- 山田 奨治:「〈海賊版〉の思想」、みすず書房、2007年
- 情報系の大学の先生による、著作権の起源に関わる論争を歴史として描いた本。読み物としても楽しい。
- 山田 奨治:「日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか」、人文書院、2011年
- 同じ著者が、近年の著作権の厳罰化の流れを批判的な視点から解説しています。ダウンロード違法化が決まった私的録音録画小委員会の様子を議事録から再現しているのが面白い。津田さん大活躍。
- 津田 大介:「だれが「音楽」を殺すのか?」、翔泳社、2004年
- その津田さんが、レコード輸入権、CCCD、ファイル交換、音楽配信サービスなど、いくつかのトピックについて音楽業界の状況と問題について書いた本。インタビューや年表などもあり、脚注も見やすい配置で、内容だけでなく本全体のデザインでも楽しませてもらった。ちなみに私にとって初 tsuda がこの本…って、どうでもいいか(汗)。あとがきに、10年後には笑っていられるといいって書いてあるけど、まだまだ我々は苦しみそうです(苦笑)
- 安藤 和宏:「よくわかる音楽著作権ビジネス 基礎編 4th Edition」、リットーミュージック、2011年
- 音楽著作権に関係する業界の実際を、細かい項目に分けてマンガ入りで説明している。本はとても分かりやすいが、業界と権利の複雑さに目が回る。主として音楽で仕事をする人向けに書かれた本で、法制度については批判なく中立的。私が読んだのは 3rd Edition だけど、この新しい 4th でもきっといい本と思う。ちなみに実践編もある。
- 竹田 和彦:「特許がわかる12章 第6版」、ダイヤモンド社、2005年
- 特許に関連するビジネスをする人向けの実用書。リファレンス的に使ってるので通読はしてないけど、各項目は実例込みで分かりやすく説明されている。
しかし自分、そこまでしてどうすんのという気も(苦笑)
2012年6月21日木曜日
簡単! 読点の打ち方
NAVERまとめ:[保存版]読むだけで文章力が劇的に向上する良質記事まとめ8選+α
ふむふむ勉強になる、と読んでたんだけど、読点(、)を打つ場所を分かりやすく説明している記事があまりないみたい。「息継ぎするところ」とか「意味の切れ目」とか言われても、実際に文章を書く場面になるとよく分からないことが多いわけで。
研究室の論文指導では、やはり読点の打ち方に苦しむ学生がいました。そこで私は、読点の打ち方を簡単な手順にして、それで教えてました。長い文のどこに読点を打つか、その場所の見つけ方です。
ちょっと検索してみても似た方法が(あるんだろうけど)見つからなかったので、書いてみることにします。
あ、これはあくまで私のやり方で、一般的とか確立された方法じゃないので悪しからず。
基本手順
読点なしにはちょっと分かりにくい、こんな文。
「私が知っている読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれです。」この文に読点を打ってみましょう。
1. 文を文節に分ける。
「文節」って国文法用語だけど、難しく考えることはなくて、要は「〜ね」を入れられる場所で切ればよいのです(と学校で習った)。私がね 知っているね …てな感じに。
分けました。
私が・知っている・読点の・分かりやすい・打ち方の・ひとつは・これです国文法的には、正しくは「知って」と「いる」は別の文節、「分かり」と「やすい」も別の文節みたい。でもこの記事の目的は読点を打つことで、「知って」と「いる」の間などに打つわけないので、「知っている」とか「分かりやすい」をひとつの文節として扱っちゃいます。その方が簡単だし。
2. 文節間で「係っている」関係を矢印で書く。
文節の関係には、主語-述語の関係や、修飾-被修飾の関係とかがあるそうです。ここではそれらを引っくるめて「係る(かかる)」関係と呼ぶことにします。そして、ある文節が、後ろの文節のどれかに係っているという関係を矢印で書きます。
例文にあるのは以下の「係る文節→係られる文節」の関係です。
- 私が→知っている
- 知っている→打ち方(の)
- 読点の→打ち方(の)
- 分かりやすい→打ち方(の)
- 打ち方の→ひとつ(は)
- ひとつは→これ(です)
係る・係られる関係として上に挙げた「私が→知っている」「知っている→打ち方」などは、元の文の意味の一部を表していることが分かると思います。
というわけで、このように矢印が書けます。
3. 長い矢印があったら、その根元にある文節の直後に読点を打つ!
この文では、「知っている」→「打ち方の」という矢印が長いので、その根元の文節「知っている」の直後に読点を打ちます。そしてあとは全部そのままで、分けた文節をくっつけて文に戻す。
私が知っている、読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれです。はい、でき上がり!
何をやっているのか?
なぜ長い矢印の根元に読点を打つとよいんでしょう。
長い矢印は、大きな言葉の固まりを飛び越して意味が係っていることを表しています。飛び越された言葉の固まりは、係られる方の言葉を説明しています。上の例では、飛び越されている「読点の分かりやすい」が「打ち方」を説明している。これらが意味的にまとまって「読点の分かりやすい打ち方」となります。
そこに「知っている」が係る。この「知っている」も、その前の「私が」に説明されて、「私が知っている」というまとまりになってます。つまり、「私が知っている」が、「読点の分かりやすい打ち方」を説明している。この大きな構造を、長い矢印は表しています。
長い矢印の根元は、意味の切れ目であり、読点を打つよい場所なのです。
このような文を口に出して読むとき、「知っている」が直後の「読点の」につながって聞こえると「私が知っている読点」と誤解される恐れがあります。ここで少し間を空けると、そういう誤解が防げる。
だからこの場所は、息継ぎをするところとも言えます。
係る先が複数ある場合
係る先がひとつ明らかにある場合はこれでいいんですが、複数あるっぽい場合もあります。例えばこれ。
「塀を越えてきた大きくて白い犬と小さくて虎縞の猫がうちの庭で鶏と喧嘩をしている。」この例で「越えてきた」の係り方は、「越えてきた→犬(と)」でも「越えてきた→猫(が)」でもよさそうです。
このように係る先が複数あるっぽい場合には、近い方に係ってることにします。遠い方に矢印を引いてしまうと、その矢印の根元に読点を打った時に、近い方の係り先に係ってないように読めてしまうから。
というわけでここでは「越えてきた→犬(と)」に矢印を書きます。
- 塀を→越えてきた
- 越えてきた→犬(と)
- 大きくて→白い
- 白い→犬(と)
- 小さくて→虎縞(の)
- 虎縞の→猫(が)
- 犬と→猫が
- 猫が→している
- うちの→庭(で)
- 庭で→している
- 鶏と→している
- 喧嘩を→している
長い矢印は、「越えてきた→犬(と)」「犬と→猫が」「猫が→している」のところにありますね。この3つの矢印の根元に打ちましょう。
塀を越えてきた、大きくて白い犬と、小さくて虎縞の猫が、うちの庭で鶏と喧嘩をしている。「越えてきた」が係る「〜犬と〜猫が」をまとめて一体と考えるなら、「犬と」の後には読点を打たず(直後の猫とつながってることにして)
塀を越えてきた、大きくて白い犬と小さくて虎縞の猫が、うちの庭で鶏と喧嘩をしている。としてもよいでしょう。
接続の場合も「係り」として扱う
「〜したが」とか「〜するとき」とか「〜したのに」とか、前後をつなぐための助詞があります。接続助詞と呼ぶらしい。例えば
「私は姉が早く帰ってくると思って夕飯を用意したが結局姉は翌朝まで帰らなかった。」という文では、「思って」の「て」、「用意したが」の「が」が接続助詞です。
これらの語は、後の何かに係ると言うより、文の中で前後をつないでます。つまりこれらの語は文中の意味的な切れ目を表していて、その直後は読点を打つ候補地になります。
ただ、これを主語-述語や修飾-被修飾の関係と別に扱うのは面倒です。どうせなら矢印で何とかしたい。
そこで、接続語は後の述語(のどれか)に係ることにします。述語をその後の部分の代表として扱うわけです。この例では、「思って→用意した(が)」「用意したが→帰らなかった」のように矢印を書きます。「思って用意した(が)」「用意したが帰らなかった」どちらも元の文の意味の一部を表してますよね。
では矢印を書いてみましょう。
- 私は→思って
- 姉が→帰ってくる(と)
- 早く→帰ってくる(と)
- 帰ってくると→思って
- 思って→用意した(が)
- 夕飯を→用意した(が)
- 用意したが→帰らなかった
- 結局→帰らなかった
- 姉は→帰らなかった
- 翌朝まで→帰らなかった
矢印が長いのは「私は→思って」「用意したが→帰らなかった」くらいでしょうか。
私は、姉が早く帰ってくると思って夕飯を用意したが、結局姉は翌朝まで帰らなかった。「結局→帰らなかった」も長いかな。
私は、姉が早く帰ってくると思って夕飯を用意したが、結局、姉は翌朝まで帰らなかった。「思って→用意したが」も長い?
私は、姉が早く帰ってくると思って、夕飯を用意したが、結局、姉は翌朝まで帰らなかった。まあどれでもよいやね。
独立した接続詞(「しかし」とか「従って」とか)がある場合も、同じように後の述語に係るとして扱えばおっけー。
読み間違いを防ぐのにも有効
こちらにとてもよい例があるので拝借します。
N1kuMeet5:[書籍]読みやすい文章にする効果的なひと工夫|書籍「頭がいい人の文章の書き方」|読み違いを防ぐ工夫をする
例文:
「妻は鼻血を流しながら逃げ出した私を追いかけた」鼻血を流してるのが妻なのか私なのかが曖昧な文です。妻が流してるなら、
- 妻は→流しながら
- 鼻血を→流しながら
- 流しながら(接続助詞)→追いかけた(妻は鼻血を出しながら追いかける)
- 逃げ出した→私(を)
- 私を→追いかけた
妻は鼻血を流しながら、逃げ出した私を追いかけたになります。もし私が流してるなら、
- 妻は→追いかけた
- 鼻血を→流しながら
- 流しながら(接続助詞)→逃げ出した(私が鼻血を流しながら逃げ出す)
- 逃げ出した→私(を)
- 私を→追いかけた
妻は、鼻血を流しながら逃げ出した私を追いかけたとなります。
全部に打たなくてもいい
長い矢印があるときに矢印の根元に打つ、が目安ですが、そういうとこ全部に打つと多すぎることもあります。
「私は昨日いつもの電車に乗って学校に行った。」
- 私は→乗って
- 昨日→乗って
- いつもの→電車(に)
- 電車に→乗って
- 乗って→行った
- 学校に→行った
私は、昨日、いつもの電車に乗って学校に行った。これでもいいけど、ちょっと前半に読点が多い気がする。こんな時は、下のように読点を省きます。
私は昨日、いつもの電車に乗って学校に行った。「私は」は主語だから述語に係る。直後の「昨日」に係ることはない。このように読点を省いても、読み手は「私は→乗って」だと分かってくれます。
「読点を省いても、読み間違えられず、分かりやすいままか」を判断基準にするとよいでしょう。
文節の切り方は適当でいい
文節ってのに正しく区切るのが大変だ、と思ったかも知れません。でも、あまり気にしなくてよいのです。
はじめの例
私が知っている読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれですでは、本当は2つの文節からできている「知って・いる」「分かり・やすい」を以下のようにひとまとめにして扱いました。
でも、下のように(正しく)文節に切っても、
やっぱり「いる→打ち方」が長い矢印になって、結果は同じ「私が知っている、読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれです。」になります。
だから、適当に切りゃいいのです。てきとーに。
読点を打つのが難しかったら、元の文が悪いのかも
同じ例
私が知っている読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれです。に、「すごく」を足して少し長くしてみます。
私が知っている読点のすごく分かりやすい打ち方のひとつはこれです。
「読点の→打ち方(の)」という矢印も長くなって、読点を打った方がいいかな、という気にもなります。打つとこうなる。
私が知っている、読点の、すごく分かりやすい打ち方のひとつはこれです。うーむ、これだと文の長さに比べて読点がちょっと多いかな…
読点を打つのが難しいと感じるのは、大抵の場合、元の文を改良した方がいいというサインです。文を分けたり、語順を入れ替えたりして改良します。
この例文の場合、「読点の」と「すごく分かりやすい」を入れ替えて
私が知っているすごく分かりやすい読点の打ち方のひとつはこれです。とすれば、
長い矢印は「知っている→打ち方(の)」だけになり、そこにひとつ読点を打つだけで、
私が知っている、すごく分かりやすい読点の打ち方のひとつはこれです。と読みやすい文になります。
まとめ
てなわけで、長い文で読点を打つ場所を見つける手順はこう。
- 文を文節のようなものにてきとーに切る。てきとーでいいんです、てきとーで。
- 「係る」関係を矢印で書く。複数に係ってるっぽかったら近い方に。
- ちょっと長いなぁと思う矢印の根元に読点を打つ!
- 読点が多いと感じたら、誤読されず分かりやすい範囲で、読点を省く。
- 読点を打つのが難しいと感じたら、文そのものを見直す。
実は、これが読点を打つ場合の全てではありません。倒置とか、他にもいろいろあります。でもまあ、これを教えた学生はその後そこそこまともに読点を打てるようになったので、これだけでも結構役に立つかと。
文の長さに対して矢印の長さがどのくらいだったら読点を打つか、ある文と別の文で読点の打ち方をどう変えるか(あるいは変えないか)、そのへんは好みやバランス、あるいはセンスですね。
「山が、動いた。」って、たまに書くとかっこいいしw
関連リンクなど
この記事は、実用的な読点の打ち方を説明するために書いたので、国文法的には正確じゃありません。文節や文節間の修飾など、正確な文法を知りたいなら、他の文書を見て下さい。
例えばこの↓サイトは分かりやすそうです。私も参考にさせてもらいました。
中学国語系エンターテインメント 中学国語のツボ|中学国文法講座
攻める気分の日には、文節を「〜ね」でなく「〜よ」で切れってのには笑いましたw
2012年6月19日火曜日
本棚は誰のもの
最近は「知的財産権」という言葉が作られて、その言葉に合わせるように権利が強化されるというよく分からない状態になっている。
レコードレンタルが現れたとき、賢いけどずるい商売だなぁと思った。ビデオ複製機は、そりゃレンタル業じゃなくて複製業だろと思った。そういうのが規制されるのは、まあ仕方ないし当然と思ったよ。
でも最近の規制の強化、権利者が公権力の力を借りてまで個人が持つ情報に手を伸ばすという状況には、それとは違う気持ち悪さを感じるんだ。
目の前に、壁全面の本棚がある。マンガはだいぶ捨ててしまったけど、小学生のときに買った工作の本から、最近買った法律の本まで。時間をかけて少しずつ読み、ことあるごとに読み返し、大事なところに線を引いたりして、中身とその本自身を自分のものにしてきた。自分の血肉にしてきた。
そう思ってた。
いま見える本のうちいくつかは、自炊代行に出してもスキャンしてもらえない本だ。何十年も前に買ったものもある。いや、長い一覧を見なければ、どれが自炊代行に出せない本か正確には分からない。
それらの本は、私が自由にできない本だ。つまり、私のものでない本だ。ある使い方だけが著者によって許された、借り物だ。これまでかけてきた本代は、本の利用料だった。
私の本棚は、つまり私の知は、私の血肉などでなく、借り物だったのだ。
私は筒井康隆の本が好きだった。何冊も買った。気に入ったものはぼろぼろになるまで読んだ。学生になくされても新しく買った。私は宮城谷昌光の本が好きだった。文庫化が待てずハードカバーで買った。
今、目の前に並ぶそれらの本に、愛着を感じてない自分がいる。知は誰かに所有されており、私のものにはならない。いくら読んでも、たとえ一字一句暗記しても、それは著者の所有物なのだ。それが「知的財産権」なのだろう。
私の知は私の一部であり、私の知の大半はこの本棚だ。よい本を読むとき、これまでは著者に感謝の念を抱いてきた。しかし、著者が私の体の一部に手を伸ばしてきて「これは私のものだ」と主張するとき、どうして感謝できよう。
正直、テレビでそのような作家を見ると、敵意を感じるようになってしまった。司会をやってたりすると最悪だ。
私はそれがとても悲しい。
これは、必要なことなんだろうか。
私は、私の本棚を取り戻したい。私の知の歴史であり現在であり、私自身の一部である、愛せる本棚を取り戻したい。
それとも、もうそれは叶わないんだろうか。
2012年6月15日金曜日
「違法ダウンロード」と人権
私も本を多少出版してわずかにせよ収入を得ているから、著作権の意義だって分かってる。でも同時に、基本的人権を持つ一国民として、著作権によって人権が不当に侵害されるのは許せないのだ。そして、「知的財産権」を当然と思う人々が、無自覚に(じゃなければもっと怒りを感じるが)人権侵害を是としているのも。
何がどう人権侵害か、と言われそうだな。
表現の自由、言論の自由は皆が認める人権だよね。それは情報を伝える権利だ。情報を自由に伝えられないと、幸福追求を妨げるし、民主主義も機能しない。出版の自由や通信の自由もそうだ。
そしてもらった情報を使って自分で考えて、幸福を追求し、意見を定め、投票し、また情報を伝えて他人の幸福と民主主義に尽くす。そのために思想の自由や内心の自由がある。公権力によって制限されてはいけない。だよね。
わかった。これらの自由はあるとしよう。
じゃあ、本を読むことを禁止されたらどうか。出版は自由だ。お好きに意見を述べ、表現をしなさい。でも読んではいけないよ。あるいは放送が自由でも、テレビの視聴が禁止されたらどうだろう。
それじゃ表現や言論が自由だって意味がない。情報を受ける自由がなければ、情報を発信する自由があったって何の役にも立たない。
授業でノートを取ることが禁止されたらどうか。好きな授業を聞きなさい。でもノートを取ってはいけないよ。あるいは本を所有することが禁止されたらどうか。本を読んでもいいが、読み返せるように所有することは禁止する。
それではいくら思想の自由があっても、まともな思想などできない。人間の記憶力は情けないほど弱い。それを補うために人は情報をとっておく。その蓄積された情報へのアクセスがなければ、幸福追求も、社会の改善もおぼつかない。
表現・言論・出版・通信の自由という「情報を送る側の自由」は、情報を受け取る側の自由がなければ意味がないものだし、思想の自由は、その思想の材料となる情報の保持の自由がなければ意味がないんだよ。
だから私は、「触れた情報を取得し保持する権利」は人権だと言ってるんだ。私の主張というより、表現の自由や思想の自由からの論理的な帰結として。(そうでないと言うなら、この権利なしに表現の自由その他がどういう意義を持つのか説明してほしい。)
日弁連には、会長声明を見たりしても、どうもこの視点が不足してるように思えてならない。捜査の過程でプライバシー侵害が起こる、ごもっとも。それも問題だ。でもその前に、(どのような経緯で公開されたにせよ)公開されている情報を取得し保持する個人の行為を禁止すること自体が人権の制限であることが見えないのか。
(小倉弁護士や共産党の宮本たけし議員はこの視点を持ってるように見える。小倉さんは例の日弁連の集会で「知る権利」という言葉を用いて主張していた。でもそれは無理だと思う。「知る権利」は、政府が持っている情報を公開させるという(私に言わせれば)基本的人権に含まれると言い切れない権利を主に表す言葉になってしまっていて、もう説得力を持たない。)
触れた情報を取得し保持する権利。この権利を人権とはっきりと認識し、その上での議論なら構わない。表現の自由だって、名誉毀損などの他者危害に関しては制限される。同じように、情報取得と保持の自由という個人の人権よりも、その一度のダウンロードで著作者が失うと見積もられる金銭的利益の方が重いと皆が思うならば、人権の方を制限したらよろしかろう。
(念のため。ここで言う人権は、公権力に対する権利のことで、私人の間の話ではありません。ライブ会場で演奏を撮影するのがダメなのは、私人間の契約によるもの。「情報取得と保持の自由」とは無関係です。)
2012年5月15日火曜日
とりあえず「開業」したことになった
実際の業務のためにはいろいろと準備が必要で、そのためにはお金を使わねばならず、それを経費とするには開業していないといけないわけで、実際の準備がようやくできる状態になったというわけです。
「個人事業の開業〜」の方は書くにも出すにもそう悩むところがなかったけど、「〜青色申告承認申請書」の方はちょっと悩みました。参考までに経験したことを。
まず、私は事業所を特に構えないつもりなので、「1 事業所又は所得の基因となる資産の名称及びその所在地」の欄はどうすればいいかと税務署で訊いたら、空欄でよいそう。でも事業所を空欄にすると、自宅兼事務所の場合とかに家賃の一部を経費にできないような気もする(私は今はそれをするつもりがないので)。
それから、起業のための相談会に行ってきたときに複式簿記をやる決意は固まったんだけど、「6 その他参考事項」の「(2) 備付帳簿名」をどうすればいいのか分からなかった。そこで、しばらく簿記の勉強をして数日帳簿をつけてみたところ、うちでは現金出納帳、固定資産台帳、預金出納帳、総勘定元帳、仕訳帳があればよさそうだと分かった。で、申請書でそれらに丸をしたものを見てもらったら、税務署のお兄さんがひと通り確認して、「うん、帳簿もちゃんと書いてあるね」と言ってくれた。勉強した甲斐があったなぁ…
「個人事業の開業〜」も「〜青色申告承認申請書」もそれぞれ2枚同じ内容を書いたものを持って行って、「控えがほしい」と言ったら、両方に青で収受印を押して、一方に赤で「控」という印を押して返してくれました。特に「個人事業の開業〜」の方は、屋号付きの銀行口座を作る時にこの控えが必要な場合がありそうなので、もらっておいた方がよさそうな感じ。
ちなみに簿記の勉強で読んだのはこれ↓(のひとつ前の版を図書館で借りて)。実務よりも原理に重点を置いて丁寧に説明してくれている感じ。自分に合ってたようで分かり易かった。
基本簿記入門 | |
建部 宏明、長屋 信義、山浦 裕幸 Amazonで詳しく見る |
それから実際の仕訳を数こなしてみたかったから Nintendo DS のソフトを買っていまやってます。復習も兼ねて。3DS 本体は持ってなかったので…友達から借りたw
本気で学ぶ LECで合格る DS日商簿記3級 | |
Nintendo DS Amazonで詳しく見る |
2012年5月10日木曜日
違法ダウンロードの刑罰化と〈知る権利〉
で、90分の話を聴いてみて、論点はすでにほぼ出揃ってるんだなと感じました。あとは判断だけだと。
というわけで、忘れないうちに大事だと思ったことを、自分のためのメモを兼ねて、書いておこうと思います。動画に関連して、でも主にそこで(あまり)言われてないことについて。
まず、これがダウンロードを違法化している著作権法の条文。
第三十条 著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。論点のひとつは、「何が犯罪か」が明らかかどうか。(動画の中に、罪刑法定主義とか構成要件という専門用語で出てくる。)それが明らかに規定されていて、それに合った場合しか罰してはならない、という原則があります。
(一、二は略)
三 著作権を侵害する自動公衆送信(国外で行われる自動公衆送信であつて、国内で行われたとしたならば著作権の侵害となるべきものを含む。)を受信して行うデジタル方式の録音又は録画を、その事実を知りながら行う場合
ある人の行為が「著作権を侵害するアップロードと知って、それをダウンロードする」だったか、それは確かに白黒つけられます。調べれば。でも私はこの規定、ダメだと思う。
動画内では、「その事実を知って」かどうか判定する前に逮捕状が出されざるを得ない、というようなことが言われてる。それも確かに大問題。さらに、容疑の段階でHDDが押収され情報の出どころが調べられかねない。これも大問題。まるで違法な文書を入手した疑いがあるからと自宅の本やノートを一切合切押収されるようなものです。
でもそれ以上にこの規程が問題だと私が思うのは、あるアップロードが「著作権を侵害する」ものであったかどうかは、裁判によらなければ最終的に決まらない、つまり個人がその場(ダウンロードという行為をする時点)で到底判断できるものじゃないってこと。
個人が行為をする時点で分からないものを犯罪の要件にしたら、何が犯罪か明らかじゃないでしょう。例えば、食料の違法な取引(というのがあるとして、それ)を阻止するために「違法に売買された食材を使った料理を食べたら罰する」なんて法律が作られたら、外食なんかできない。判断のしようがないんだから。
「(国外で行われる自動公衆送信であつて、国内で行われたとしたならば著作権の侵害となるべきものを含む。)」の部分なんてさらに判断できない。外国で、その音楽や動画がどのような経緯でアップロードされたのか分かるはずもないし、それについての裁判は行われないんだから、著作権侵害かどうかが最終的に決まることもない。
多分この規程は、「無料コンテンツは基本的に違法コンテンツである」という前提で作られたんでしょうね。松田政行弁護士の話からもそれが分かる(59:55くらいから)。「無料違法コンテンツ」をダウンロードするソフトの話…ソフトが、とあるネット上のコンテンツが著作権法的に違法かなんて判断できるはずがないよなぁ。そして1:00:15から、クローリングして利用者が所望する「無料コンテンツ、まあ違法コンテンツですね」と言っているし。
つまり立法者の考えはこうなんでしょう。「ネット上にある音楽と映像はそれが無料ならば違法と思えばいい。基本的に、無料コンテンツをダウンロードしなければいいのだ。」
だとすれば、もしもサイトに「合法です」と書いてあっても、恐くてダウンロードできない。自分のダウンロードが犯罪かどうかは、サイトについて裁判が終わるまで分からないのだから。そしてそれは、有料コンテンツだって変わりない。有料だから合法だとは言えないからね。
結局、何らかの意味で「信用できる」サイトからしかダウンロードできない。その「信用できる」サイトがたまたま著作権法に反してコンテンツをアップロードしたら…ダウンロードした私も犯罪者。あれれ。(訂正。犯罪者にはならないですね。違法アップロードかやっぱり判断できない、ってことで。)
しかし YouTube にも Ustream にも合法無料コンテンツなんていくらでもあるのになぁ。てかこの市民集会の動画がまさにそうじゃないか。これが違法アップロードでないって誰が判断できるんだろう。私には自信がない。松田先生、いかがですか?(笑)
ついでに。松田弁護士は0:45から1:05まで「なぜ自分は民事違法化賛成、刑事違法化反対か」を説明していて、大量ダウンロードツールの販売に対して賠償請求ができることは一定の社会的正義があると考えたから、と言ってるけど、ならばそちらを違法化するべきだったと私は思うし、実際の賠償請求を想定しなくても個人のダウンロードを著作権侵害と規定していることには変わりない。
で、そもそも個人のダウンロードを著作権侵害とすべきなのか。
松田弁護士は著作権法の「私的利用自由の原則」について説明してる。小倉弁護士は19:00くらいから「知る権利」との関係を話してる。面白いことに、松田弁護士の資料を見ると(15-16/64ページ)「個人生活の中に法は入るべきではない」とか「文化、情報に関する著作権法は、できるだけ個人の自由を保障すべきである」とは書いてるけど、はっきり「知る権利」とは書いてないんだな。
やっぱり私はここが一番のポイントだと思う。
著作権が重要な権利であれば、私的複製は禁止されてもいいはず。でもなぜ私的複製が許されるのか。それは、より強い権利、つまり基本的人権が存在して著作権を制限していると考えるのが自然だと思うのだ。
「知る権利」という言葉は、いろいろな意味で使われるし(政府が持ってる情報を要求する権利という意味)、それだけでは権利の内容がよく分からない(いくら「知る権利」って言ったって、他人が知ってる情報を何でもかんでも「知る権利」なんてない…それはむしろ他人の内心の自由を侵害する)。
そこで私は、著作権(とか児ポ法)との関係では
を人権として考えるといいのではないかと思ってる。この(ウィキペディアの説明によると「消極的な」)自由権をここでは〈知る権利〉と呼ぶことにします。ここで情報に「触れる」とは、システムに侵入して盗みだすとか他人の家に盗聴器を仕掛けるとかの違法な行為によるものは当然含まず、あくまで行為そのものとしては問題ない行為で情報に接することを意味します。
ここで大事なのは、対象となる情報がどんなものかによらず〈知る権利〉を認めるということ。そこで対象となる情報を限定できると、公権力に都合の悪い情報を制限できるようになるので、人権という考え方に合わないから。
なお、普通は「知る権利」に含まれる、国家が持つ情報を国民が要求する権利は、私がここで言う〈知る権利〉には含まれません。このような情報要求権を自由権に分類するのは無理があると思う。
なぜ〈知る権利〉を人権としてよいか。私はこれは、思想の自由から自然に導かれると思う。情報が得られなければ思想など持てない。得られる情報が制限されるなら思想の自由なんてない。よね。
では〈知る権利〉は制限されてよいか。表現の自由が例えば名誉毀損罪や侮辱罪になる場合には制限されるように、〈知る権利〉も制限される場面があって不思議はないと思う。ただし、〈知る権利〉が人権であるならそれはとても強い権利なので、他人の人権と衝突する場合に公共の福祉によるか、名誉毀損や侮辱のように他者に損害を与える場合―いい例が思い浮かばないけれども―に制限するに留めるべきだと思う。表現の自由や言論の自由その他の人権と同じように。
それともうひとつ。公権力と関係なく、私人の間で自由に契約が行われるなら、その契約は守られなければならない。例えば、中で写真を取らない録音をしないという条件で、ライブ会場に入れてもらう場合とか。
さて、いま仮に、「違法ダウンロード(=違法にアップロードされたものをダウンロードすること)」を禁止する規定をこれから作ろうとする時点に戻ってみる。〈知る権利〉は、違法でない行為でどのような情報でも取得する自由を言っている。だから、違法ダウンロード禁止が是か非かは、〈知る権利〉と著作権の間の調整だったはずなのだ。
〈知る権利〉は人権。片や著作権は、文化振興のインセンティブのために、誰かに利益を与えるための権利。このふたつの権利が衝突する時に、前者を制限することは妥当だろうか。
この制限は例によって2段階で行われる。まずは罰則なしの違法化、次が刑罰化だ。
第1段階、罰則なしの違法化―これは最近よくある手で、私はこのやりかた自体が罪刑法定主義に反する脱法行為(いや、脱憲行為と言うべきか)だと思ってるんだが―によって損害賠償責任を負わせたこと。松田弁護士は個人に対する請求権は想定していなかったというようなことを言ってるけど、日本が法治国家なら、この規程は明らかに違法ダウンロードした個人に損害賠償責任を負わせるものだ。そう書いてあるから。なら、人権である〈知る権利〉を行使した個人が、他者の人権との調整でもなく、契約にもよらずに、損害賠償責任を負うってことだ。著作権は、そこまで強い権利なのか。
第2段階、刑罰化。これは、〈知る権利〉がもともと公権力に対する人権である(と見なした)ことから、明らかに人権侵害だ。
また長くなりましたが(汗)、まとめるとこんな感じ↓です。
- あるコンテンツが違法アップロードされたものかどうかを、ダウンロードする人が判断するのは困難である。ダウンロード違法化の規定は、形の上では構成要件を明確に示しているように見えるが、行為者がその時にはっきり判断できないので、罪刑法定主義に照らして疑問が大きい。
- 著作権法に例外として規定されている私的複製の許可は、〈知る権利〉という人権からの要請と考えると自然である。
- 〈知る権利〉は思想の自由から自然に導かれる。
- 〈知る権利〉が人権だとすると、ダウンロード違法化は著作権を強め過ぎだし、刑罰化は人権侵害なので許されない。
だから私は、そこに〈知る権利〉を置いて、
と見なしてみたい。だからと言って私的複製は無制限に許されるべきといきなり主張するわけではありません。でも、このようにそこに人権があると認めることで、話が権利の間の調整になる。それによって、それぞれが自分の利益のために主張する声の大きさで決まるという望ましくない決め方を避けられるといいなぁと思うのです。
そういや電波法とか電気通信事業法とかでも、通信の傍受はたしか禁止されてなくて、それを漏らしたりすることが禁じられてたと思うなぁ。最近関わってないけど。ここらへんとも〈知る権利〉は一貫してると思う。
というわけで、あとは判断するだけだと思うんですが、どうでしょう。〈知る権利〉は人権である。私的複製は〈知る権利〉の行使である。この2つを私は主張してみましたが、皆さんはどう思いますか。
2012年5月4日金曜日
ダウンロード違法化のインパクト
そういうやり方に利点がないとは言わないけど、もしそれらの違法化が手放しによいと思うなら、ちょっと考えてほしいなぁと。
ダウンロード違法化(単純所持でも取得はするんでまとめてこう呼ぶことにする)という考えは、あるデータをダウンロードする時に、そのデータのダウンロードが違法かどうかを人間が判断できることを前提にしている。ダウンロード時に、ああこのデータは違法に公開された(ようだ)、だからダウンロードしてはいけない、と判断できるってこと。
さらにこれは、その判断を実際に人間がしなければならないということも意味する。違法なダウンロードをしないために。
とすると、自分が持つコンピュータにネットから取得できるデータ量は、自分という人間の判断の速度によって制限されてしまいます。
何が言いたいか。ダウンロード違法化は、ネットからデータを自動的に取得する技術を事実上違法化してしまうってことです。(意図がなければ免責とかなっても、意図がないことを証明しなければならない。犯罪かどうかが、意図にかかってきてしまう。)
ネットからの自動取得ができなければ、ネット上に大量にあるニュースを自動的に取得し処理して自分用にカスタマイズするとかできないし、そのほか画像でも音声でも動画でもなんでも、自分の役に立つ大量のデータがネット上にあっても、それを自動的にコンピュータに取得させるわけにはいかない。そのダウンロードが違法かどうか、自分がちゃんとチェックしないといけない。
これが日本の情報技術の進歩にどういう影響を与えるか。特に、他国との競争に関して。自動キュレーションとか、これから絶対必要になると思うんだけどな。
つまり、ダウンロード違法化も情報単純所持違法化も、「情報は人間が手で取得する」という前提に基づいてるってわけです。この前提は、必ず時代遅れになる。すなわち、日本の技術は時代遅れになる。間違いなく。
検索エンジンとかP2Pに関連してすでに問題になってたんだけど、あまり気にされてないみたいだし、ちょっと思い出したんで書いてみました。
2012年5月1日火曜日
起業のための相談会に行ってきた
中小企業診断士ってどんな仕事か知らなかったんだけど、コンサルタントみたいなものだったんですね。
それはともかく、本を読んだりしてもどうも分からなかったことをいくつか訊いてきました。
まず、個人事業でいくべきか最初から会社にするべきか。資金と人を集めるのは会社の方が有利だし、信用度も高いので広く商売ができる。人脈が既にあれば個人から始めて大きくするのもよし。税金のかかり方が個人と会社では違って、売上で年1千万円〜1千百万円くらい以上なら法人化、という目安もあるそう。もちろん事業内容でも変わってくる。(だからコンサルタントが助かるんですね)
じゃあ個人事業かなと思い、ならばいつ届出をすべきか。個人事業主の届出は、要は税金の話だそうで、創業のための費用が発生し始めたら届け出るといいらしい。経費にできるから。
あとは所得税の申告で、白色という選択はない(損失が繰り越せない)ので青色としても、簡易簿記(10万円控除)と複式簿記(65万円控除)のどっちを選ぶべきか。てか、自分に複式簿記とかできるのか、という相談。こればっかりは知らないと分からない。
すると、簿記3級の知識があればできる、本気なら3日勉強すれば分かる、と言われてしまいました(汗)。問題は、それだけの(勉強と作業の)時間をかけようと思うかどうか、だそうな。どうせゆくゆくは法人化するなら、今からやっておいた方が、とも。
つまり、やれってことですね、はい (^^;;
あとは、前の職場からもらった離職票の扱い。これをハローワークに持って行って登録すると「失業者」になるらしい。自己都合退職なのでしばらく(半年くらい?)すると失業保険の給付が受けられる。それをもらいながら起業の準備という人もいるようだけど、私はとっとと始めたいし物も買わなきゃいかんのでそうは行かない。ただ、離職票は別の用途で必要になることがあるから大事に保管しとくべし、だそうな。
というわけで、複式簿記の勉強を始めたところです。個人事業主の届も、早めに出さないとな。
2012年4月2日月曜日
資金決済の問題とプライバシー
知り難きこと陰のごとく:Paypalがオワコン化してしまった件について
私、実は先月(3/7)PayPal にメールで、資金移動業者登録して個人間送金をすればよいのに、しないのはなぜ?って質問をしてます。こんな感じ↓
貴社ウェブ上の FAQ を見たところ、日本で個人間送金ができないのは2010年4月1日から施行された法律(資金決済法を指していると思います)を遵守するためとのことですが、この法律はむしろ資金移動業を営めるようにしていると思います。そこで、以下のことを教えて下さいませんか。
* 今後、個人間送金をサポートしようとお考えですか。もしそうならば、法施行からこれだけ経った現在もサービスされていない理由はなんでしょうか。
* もし今後個人間送金をサポートする予定が(現状では)ないなら、その理由はなんでしょうか。
以上、お答え頂けるとありがたく思います。よろしくお願いします。これに対して、24時間以内に返事する、72時間は待たせないように頑張る、という(自動返信だろうけど)メールをもらったのに、ずっと梨のつぶてでした。というわけで、この PayPal からのお知らせが返事ってことですね。
しかし PayPal 頑張るなぁ。この手間を手数料に転嫁すれば問題が分かりやすいのにw
もちろんこれは PayPal だけの問題じゃなくて、資金決済一般に関わる問題で、私に言わせれば、社会生活のエネルギーであるお金の流れが阻害されている。前に改札での本人確認とか(コメントで)全ての国道での常時検問とかの例を出した通りです。
「犯罪者の資金洗浄を防ぐために、全ての人の金のやり取りを明らかにすべき」という、いつのまにか当たり前になった前提を見直さない限り、この状況はどうにもならないように思います。そりゃ警察や、ついでに税務署とかは楽だろうけど…
ちょっと別の視点から。自分が誰にお金を払うかってのは、プライバシーではないんですかね。で、プライバシー権とかあったよね。個人情報の保護とかいうのには熱心なのに、自分の経済活動がいつでも公権力に分かるようにプライバシーを手放すことを(組織犯罪対策という)何らかの理由がつけば人権侵害だと呼ばずにハイそうですかと認めるなら、人権なんて都合のいいときに公権力から与えられるだけじゃないの、と私なんかは思ってしまうんですけどね。
と言うか、国や地方自治体が個人情報保護法の適用除外となってたり(できた当時に条文読んだときにそう読めた)、お金を動かすならそれが警察に分かるようにしておかなければいけない、それで構わないという考え方が、日本における?プライバシーという考え方なんだろうなぁ。
少なくとも日本においてプライバシーとはきっと、公権力に対しては守られるべきものではなく、個人は公権力にプライバシーをはいどうぞと差し出し、でもそれを他人から守ってね、というものなんだろうな。私はこれには大きな違和感を覚えるんだけど…
これもまた、私人間の「平等」と同じく、ねじれた人権意識かも。
2012年3月25日日曜日
サントリー美術館「東洋陶磁の美」
この土日、六本木は「六本木アートナイト」というイベントをやっていて、その一部として、通常は1300円の入館料がなんと500円!
中国と、高麗、朝鮮の陶磁器の展示でした。こことかここに写真があります(こんなに写真出して、太っ腹だ…)。国宝2つはやっぱり凄かった。他にもいくつも気に入ったものがありました。象嵌とか、味のある絵付けとか。
実は普段はあまり好んで観ないジャンルで、500円ならいいかと行ったのでした (^^;; いい方に期待を裏切られました。
明日(もう今日だ)行くとまだ500円ですよ〜。行かなくても、ちょっとでも興味あれば、上のサイトの写真を観とくと得かも。こんなに出してくれることあんまりないと思う。
ちなみにイベントのせいか街は混んでたけど、美術館は大丈夫でした。
2012年3月16日金曜日
普通の信号が普通じゃないと危ない
通勤路に信号のある十字路があります。「普通の」信号です。私はここを右折して家に帰ってます。右折用の矢印信号がないので、対向車が切れるか、黄色になって向こうが止まらないと曲がれない。まあ普通ですね。
でもなんかこの信号、危ないのです。信号が黄、赤と変わっても対向車が曲がらせてくれない。見た目そんなに乱暴そうじゃない車に突っ込まれそうになったこともあります。他の車もよく警笛を鳴らしている。
そんなことが何度もあったので、ちょっと前に信号待ちで観察してみました。すると…
どうでしょう。分かります?
こちらと対向で、信号が黄色になるタイミングは同じなんですが、赤になるタイミングが1秒ほど対向側が遅いのです。だから、こちらから見て完全に赤になったと思っても、対向車は黄色だと思っている。このたった1秒のずれで、危ないことになったり、怒ったりしてたのでした。
「普通の信号ならこちらも対向も赤、青、黄色になるタイミングは全く同じである」という無意識の思い込みに気づかされた事件?でした。
てか危ないよね。対向側の右折時間を取るためかも知れないけど、こっちの方がいつも右折並ぶのに。市かどっかに言った方がいいかな。
2012年3月11日日曜日
JavaScript の this のキモチ
- Standard ECMA-262: ECMAScript Language Specification, Edition 5.1 (June 2011)
- JavaScript, JavaScript...: Understanding JavaScript’s this keyword
普通のオブジェクト指向の考え方では、オブジェクトは内部変数と手続きを持っていると考えます。下の図で、a がオブジェクト、x が内部変数、m が手続きです。この手続きをメソッドと呼びます。
で、オブジェクト指向の基本的な考え方に、「内部変数はそのオブジェクトが持つメソッドからのみアクセスする」ってのがあります。a の内部変数 x にアクセスするには、a のメソッドのどれか(ここでは m しかないけど)の中から this.x とするしかない、ってことです。これをカプセル化と呼びます。カプセル化は不便に見えるかも知れないけど実は便利な機能です。
さて、JavaScript においては、メソッドは関数として定義される。そして関数は独立したひとつのオブジェクトです。以下のようなコードを書くと…
こうすると関数 f が、オブジェクト a のメソッド m として呼び出せるようになります。ここで、var a = { x: 0 }; function f() { this.x++; } a.m = f;
a.m();とすれば、a が持つ内部変数(属性、property)x の値が1増えます。
この時の a と f の関係を描くと下の図のようになっています。
ここで気づくのは、(関数である)オブジェクト f は、他のオブジェクト a の内部変数をいじる!ってことです。オブジェクト指向はカプセル化だよね〜とか思っている私のように古いタイプ(?)の人間は、this.x と書かれたらまさか他のオブジェクトの内部変数をいじってるとは思わないので、これを理解するというか納得するのに時間がかかりました。(いや、分かってしまえば、「関数がメソッドになる」「関数は独立したオブジェクトだ」とはそういう意味なんだけれども…)
というわけで私と同類な人向けに:JavaScript の this はカプセル化じゃありませんよ!
じゃあ this の意味は何か。同じ関数 f を別のオブジェクト b のメソッドにもしてみると分かりやすい。
var b = { x: 0, n: f };
これで関数 f は、a.m() としても呼べるし、b.n() としても呼べるようになりました。f のコード中にある this.x は、a.m() として呼ばれた時には a の中の x を意味し、b.n() として呼ばれた時には b の中の x を意味します。
と言うか、そういう意味になるように、this が指すものを、関数の呼び出し方によって変えているのです。a.m() として呼ばれたコードの実行中には this は a を指し、b.n() として呼ばれたコードの実行中には this は b を指す。
再び同類向けに:this は「このオブジェクト」ではなく、「この関数が、あるオブジェクト a のメソッド m として与えられており、なおかつ a.m() の形で呼ばれた場合、a」という意味。長い。てか全然 this じゃない。
(この関数をメソッドとして呼んだオブジェクト、と言いたいところだけど、そうでもない。a.m() を呼ぶのは a ではなくて、そのコードが書かれた何か(関数とかグローバルなコードとか)なので…)
だから、こんなコード
を書いて、「これでこの関数が呼ばれる時には必ず o1 の属性 x が増える」と安心してはいけないのです。たしかに o1.m() で呼ばれるとそうなる。でもここで、var o1 = { x: 0, m: function() { this.x++; } };
とすれば、同じく o1 の「中に書いてある」(ように見える)関数が実行されるけど、増えるのは o2 の方の x。この時の状況はこう↓(上の a と b の場合と同様)var o2 = { x: 0, m: o1.m }; o2.m();
この関数は o1 の「中で」定義されているわけではなく、そのオブジェクトに所属してもいません。this が何を指すかは、あくまで「呼ばれ方」(o1.m なのか o2.m なのか)で決まります。(私が正しく理解していれば。)
こういう動作を見て、私は、ああ JavaScript は普通のオブジェクト指向言語の this をエミュレートしたかったんだなと理解しました。それが this の役割なんだろうと。
こう考えると、
- 関数 f が裸で f() のように呼ばれたら this はグローバルオブジェクト(とか undefined)を指す
- (a.m = a.m)() として f を呼ぶと、this は a を指さずにグローバルオブジェクトとかを指す
- 関数のメソッド .call や .apply で this を明示的に指定できる
- 関数 F を new F のように呼ぶと、F のコード中で this は新しくできたオブジェクトを指す
- この場合、f をメソッドとして呼んでないけど、this には何かを指させなきゃいけない。ならば undefined か null かグローバルオブジェクトだが、まあ何でもいいのでは。
- (a.m = a.m) の右辺の式の値として、生の f が出てくる。この値(関数そのもの)を使って呼んでるからメソッドとして呼んでない。よって1と同じ。
- メソッドがオブジェクトに所属する普通のオブジェクト指向とは違って、JavaScript では関数が自由にどんなオブジェクトのメソッドにもなれる(a.m = f として a.m() と呼ぶ)。でもそれが自由なら別にわざわざ a.m = f として属性にすることなく a のメソッドとして呼べてもいい(f.apply(a))。
- 新しくできたオブジェクトを o とし、そのオブジェクトが初期化関数を表す属性 init を持ちそれが F を指しているとして、o.init のように呼ばれたと考えれば、普通のオブジェクト指向言語と同じ。
としてvar g = function() { this.x++; }; g.x = 0;
が自分(関数 g)の x を増やさないのは何とも…(ってまだ言ってる。それは this じゃないんだって。)g();
まとめ。
- this は「このオブジェクト」と思わない方がいい。
- this は「メソッドとして呼ぶ呼び方でこの関数が呼ばれた時の、指定されたオブジェクト」を意味する。
- this は(この関数とは)別のオブジェクトを指す。何を指すかは、呼び出し毎に決まる。
2012年3月7日水曜日
日本には営むのに許認可の不要な業種もあるそうだ
このように、あらゆる業種、あらゆる行為について、許認可が法律上必要とされています。独立開業にあたっては、この点に十分な注意を払うべきです。(「独立開業者必携 起業・開業手続き・許認可のしくみがわかる事典」204ページ)やっぱり…以前のエントリで書いたように、まさに「〜業」で縦割り規制されている。
そして「許認可の不要な業種もある」として、通信販売業、リース業、カイロプラクティック、ベビーシッター、家庭教師派遣業、学習塾、結婚紹介所が一覧として挙げられてます。 代表的なものがこれで、他の一般的なものはみんな許認可が必要なわけか。これでは、学生が卒業後の進路として、すでにある企業への就職しか考えないのも当然だな。そして企業に入れる人数は限られている、と。
職業選択の自由〜あははん♪ってのがあったな(古いw)
「〜業」の形態を縦割りにして法律を作る方が楽だろうけど、別の作り方もできるんじゃないだろうか。消費者に害を与えるような行為だけをうまく禁止するような「横割り」の。とまた思うのだった。
ちなみに上に挙げた本はこれ:
「事典」となってるけど、私は最初から読みました。やさしく書いてあって分かりやすいと思います。個人事業と株式会社だけでなく、合同会社、NPO法人、LLP、一般社団・財団の設立の仕方についても書いてあって、いろんな選択肢が見えていい感じ。ただ「これがいいよ!」とお薦めはしてくれてない。あくまで客観的に、というスタンスみたいです。あと助成金もいくつか紹介してくれてます。
さて、どの形態でいくかなぁ。
2012年3月5日月曜日
古筆手鑑 ― 国宝『見努世友』と『藻塩草』を観てきた
「古筆」ってのは歌とかの写本で平安時代とか鎌倉時代とかに書かれたもので、その断簡を集めた見本帖を「手鑑」と言うそうな。古筆の平仮名はとてもきれいで、私は掛軸などになっているものも好んで見ています。今回はそれが多く観られる(しかも国宝)ということで行ってきました。
出光は陶磁器とか屏風絵とかの展示のときは混むけど、古筆なら日曜でも混まないだろうと思ったら、案の定すいてた。しかし計算外だったのは、文字をゆっくり鑑賞していると時間がかかること。人もあまり進まないし (^^;; 2時間と思ったけど、3時間あった方がよかったな…まあでも私は進むのが遅い方で(単眼鏡で覗き込んだりしてるしw)、他の人は2時間で十分くらいのペースでした。
しかし今回、国宝のふたつ以外も見ごたえたっぷりだった。重要文化財も重要美術品も多く、展示品の中で「これがよかった」と言えないくらい良いものばかり。おかげで珍しく図録を買ってしまった。立体物と違って紙だしね。
惜しむらくは、自分は草書が少ししか読めないこと。お年寄りでもほとんど読めなそうにしてました(私のほうが読めてるくらい)。高校の国語とかでちゃんと教えてくれてればなぁ…。今は一応机にこの字典↓を置いて、気にして覚えるようにはしてるんだけど。
あとこれ見ながら、行書はできるだけ普段から書くようにしてる。
それからもちろん歌をもっと知ってるとさらに楽しめそう。これも道は長い (^^;;
買って帰ってから気づいたんですが、図録には釈文があってラッキーでした。時間ができたらゆっくり読もうっと。
2012年3月4日日曜日
蛇足:Gumroad と規制とイノベーションについて
あの本文だけを読んだ人には、是非コメントでのやり取りも読んでほしいと思っています。Gumroad は資金移動業なのか、それとも販売のサイトなのか、グレーなのか、販売のサイトなら通信販売に関する規制にかからないのか、など。
あとこのページ↓も参考になりそう:
企業法務マンサバイバル|Gumroadの利用規約をリバースエンジニアリングしてみる
で、コメントのやりとりなどでいろいろ教えてもらったり、考えたりして、今んとこ思ってることを簡単に書いておこうと思います。
Gumroad がなぜ話題になったのか。もし Gumroad がデータ販売サイトなら、それは画期的でも何でもない。Gumroad がサービスとして画期的と見なされているとすれば、それは利用者から見た簡単さのためなんだろうけど、仕組みとしては、販売機能を最小化しほぼ決済機能のみを提供するところだと思う。それが簡単さにつながっているように思います。
それを日本の法律側から見ると、限りなく資金決済業に近い販売業になり、それがきっと私の目には資金移動業に見えたんだろうと思ってます。だから、うん、グレーだよなと。
いま Gumroad は日本で合法かと言う話が他でも聞こえます。資金決済的に合法か? 販売なら資金決済法の対象外だが、ならば特定商取引法に照らして合法か? 日本ではどうも、業務の形態によって、それを規制する法律をひとつ作るという考え方のようです。この考え方で法律を作れば、法律が想定している業務に近いけど異なった形態であるようなイノベーションは―それが有効かつ安全であっても―違法になるか、脱法になるかでしょう。
そして、我々はその考え方に慣らされていないかな。新しい業態はそれに対応する法律で規制すべきだと。
規制が不要とは言ってません。だけど、業態を決定してしまうような法律は、原理的にイノベーションを阻害する。違うかな。
あと、私は「日本ではイノベーションは起きない」とは言ってないのです。どうも誤解されてるみたいだけど(苦笑)。私が書いたのは、「日本では預金と為替が原則禁止なので、金の流れに関するイノベーションは(それらを原則禁止としない他国より)起きにくい」ということ。これが立法者(「主権」を持つ私達自身を含めて)に伝えたかった観察で、それとは別に、起業家はどんな規制の下でも、可能なイノベーションは起こさなきゃいけない、そう思ってます。
2012年3月3日土曜日
「なぜ Gumroad や PayPal が日本から現れないのか」みたいな記事を書くとブログへのアクセスがどうなるのか
Blogger には簡単な統計情報を見る機能がついていて、アクセスしているユーザの情報(IPアドレスとか)は全然分からないんだけど、どのリンクやページやサイトからアクセスしたかという参照元は、数の多い方から10個ほどは分かります。普段は私自身のつぶやき(ブログ更新しました〜的なやつ)に入っている t.co 短縮 URL 経由から多く来てるので、ああフォロワーの方々が読んでくれてるんだな、と分かるっていう。
で、今回は珍しい体験だったので、アクセスがどんな推移を辿ったかを共有したいなと。後で何かの役に立つかも知れないし。そういうのを貯めこまないのが情報産業2.0(笑)
さて、時間ごとのアクセス数はこんな風でした↓
はてなブックマークに多く登録されるようになって人気エントリになると、いきなりアクセスが増えました。ここ以降しばらくは b.hatena.ne.jp や www.hatena.ne.jp からのアクセスが多くを占めるようになります。
夜中の谷を経て翌朝にはまた Twitter で言及してもらい、はてなブックマーク経由と合わせてまた多くのアクセスがありました。その後は徐々に減り、あるタイミング(3/1の前半くらいか)で人気エントリ一覧から外れると、あとは Twitter での言及で山ができる、という感じだったようです。
まあ生ログがないので多分に推測が入ってますけど、当たらずとも遠からずではないかと。
参照サイト別のこれまでのアクセス数上位は、およそこんな↓感じです。
- はてな:4360
- Twitter:3000
- Google 系:1040
- Facebook: 960
- HK-DMZ+ さん:330
考察。ってほどじゃないが。思ったこと。
- はてなブックマークの人気エントリに入るとなんかすごい。ブログよく読む人がチェックしてると思われる。
- 今回は口コミから Facebook という経路だったと思われる(Facebook でどのページに書いてもらったのかは分からなかった)が、Facebook からのアクセスが目立ったのは最初だけ。
- それに対して Twitter は、言及されるたびに波状攻撃のようにアクセスがある。
- 言及してくれた何人かについて、アクセス数/フォロワー数という比率を見てみたら、およそ0.数%から数%だった。つまり一度の言及で、そのユーザの約1%のフォロワーの人がアクセスしてくれた計算になる。
- 普段のつぶやきがエントリの主題に近いユーザの方がこの比率が高いようだった。
というわけでろくに分析もせずに抛ってみる(笑)
あ、いま見たら Tumblr からのアクセスが見えてる。Tumblr はユーザごとにサイト名が違うから、この方法では把握できないな…
逗子へ運慶作の仏像を拝観しに
逗子駅からバスで20分くらいかなと思ったら、渋滞で40分くらいかかった。海岸沿いの道で交通集中のせいかな。浄楽寺につくと年配の人を中心に結構な人が下車しました。
着いてみると、その道から山門もくぐらずに本堂に来るような小さなお寺。案内に従って本堂を右からぐるりと回って裏手に収蔵庫があり、百円をお納めすると、毘沙門天立像、阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)、不動明王立像が間近で拝めました。5体とも運慶作、重要文化財。こんな近くていいの?という感じ。触らないで下さいって書いてあるし (^^;;
直後に団体さんが着いて、2, 30人くらいしか入れない収蔵庫はいっぱいになってしまいました。御朱印を頂いて、団体さん向けの解説を聞いてから外に出ると、たくさんの人が待ってる…。下の写真は、帰り際に本堂の横から収蔵庫の方を撮ったものです。
公開日の三月三日と十月十九日以外でも、予約すれば拝観できるとか。人がすごく多くてあまり心穏やかでなかったし、堂内は静かにと書いてあるのにうるさい人がいたり(まあ観光地の常だけど…)とあまりよくなかったので、他の日に拝みに行った方がいいかも。
帰りのバスは新逗子駅までは早く、次の終点逗子駅まではのろのろ。そのせいではないけど昼飯難民になってしまいました。開いてる店をいくつか見て、入ったのは「支那そば哉」。ラーメンも餃子も上品な感じで美味しかった。ごちそうさま。
帰ってから Wikipedia で運慶の現存作品の項を見て、こんなに少ないんだとびっくりしました。東大寺南大門、興福寺北円堂へも最近行ってるから半分位を見たことになる。ってまたフェルメールの絵の時と同じようなことを(苦笑)
2012年2月29日水曜日
情報産業2.0
でもずっと情報とか著作権とか起業とか考えてて、こう分類すると分かりやすいなぁと自分の中で思ってるものがあるので書いてみたいのです。分類自体は既出かも知れないけど、言葉はほとんど使われてないので私がもらった!(笑)
- 情報産業1.0
- 情報を、一部の人に渡し、他の人に渡さないという前提で利益を上げる産業。
- 情報産業2.0
- そうでない情報産業。具体的には、全ての人に情報が行き渡ってもよいか、ある情報を全く出さない形で利益を上げる産業。
情報産業1.0の例:
- CDを売るとか普通の出版。お金を払った人だけに渡す。
- ソフトウェアの販売
- いわゆる情報商材の販売
情報産業2.0の例:
- Google 検索サービス。膨大な内部データは出さない。検索結果だけを提供する。検索結果は広く知られてもよい。
- Twitter。内部データは出さない。利用者に応じて、その内部データの見え方 (view) を提供する。
- Facebook。Twitter と同様に、利用者に応じた「見え方」を提供する。
- ウェブアプリでデータ処理などを提供(Gmail とか)。動作しているソフトウェアそのものは出さない。処理されるデータが広く行き渡っても、サービス提供側は困らない(使ってる側は困るかも知れないけど)。
- 速報的ニュースの提供。利用者が速報性にお金を払うなら、その情報は後で行き渡っても困らない。
- 個人向けキュレーションサービス。他の人に情報が渡っても、その人向けじゃないから価値がないので構わない。
いわゆる CGM はだいたい2.0に分類されそう。きれいに分けられない場合もあるので(ニコ動とか、ライブパフォーマンスとか)、まあ情報産業2.0「的」と言う方がいいのかな。
この分類、何が分かりやすいかって言うと、情報産業1.0の方は情報の複製を法律で禁じなければ成立しないけど、2.0の方は成立するってところ。
情報産業2.0はどんなものか、実際にあるサービスを見て考えてみると、鍵は、
- 個人化 (personalization)、見え方の提供
- 利用者からの入力への対応、即時性、一回性
- 情報ストックでなくフロー、速報性
津田大介氏 (Twitter @tsuda) が「情報の呼吸法」で、フロー情報を Twitter でリアルタイムに出して、ストック情報をメルマガで出して収益化、ということを書いてる。上のように考えると、実はそれはフローを収益化しているように私は思った。
(エッセイとノウハウの間のような不思議な感じの本。3/25までに買うと電子版が無料でもらえる。私ももらいました)
梅棹忠夫「情報の文明学」は、私の読む限り、この分類で情報産業1.0の方を考えているのかなぁという感じ。特許について書かれているところだけど(273〜274ページ):
[略]つまり、情報の公開性に、法が介入することによって、情報は経済的価値を生ずることとなったのである。
情報の経済的価値は、基本的には、その独占から発生する。[略]
[略]情報化、あるいは情報社会というものは、この情報の公開性と独占とに対する権力の介入が、正常におこなわれないかぎり成立しない。逆に言えば、国家をまたいで(国家と無関係に)成立する情報産業は2.0の方とも言えるかも。
同じ本で、情報産業の例として教育が挙げられてます。教育は、私が考えると2.0。知識や技術そのものと教育の違いは、まさに個人化とか対応とかだから。
とは言え、知の巨人梅棹忠夫は大きすぎて、まだまだ全然わかってません…きっと拙いことを言ってるんだろうな自分。
(私の持ってるものの帯には糸井重里さんが「40年前に書かれた『知の大予言』。」との言葉を入れてます。しかも今でも越えられてない、と思う。)
で、こう分類すると、何らかの作品を作ってそれを売る一次創作者は情報産業1.0になります。そうすると勢い、著作権の強化ということになってしまう。一次創作者が、著作権なしで生きられる、情報産業2.0になれないんだろうか。
一つの手は、自分の能力そのものを自分が持つ情報と位置づけて、そこから出てくるフローで収益を上げると考える。これなら2.0だから。
あるいは、自分の作品そのものではなく、その見え方を売るという手もあるのかも。ちょっとすぐには思いつかないけど。
まあ、著作権回りのごたごたを見ていると、そういう何かうまい手があればなぁ思います。
というわけで、これから起業するなら情報産業2.0の方がいいよね〜、という話でした。
そうか、辞めずに教育を続けてもよかったんだな…でも退職届出しちゃったし。もう持ってるもの全部出すしかない、くらいの勢いで行きます。
2012年2月28日火曜日
なぜ Gumroad や PayPal が日本から現れないのか
gumsafe 開発ブログ:gumroadの決済URLが割れてもコンテンツURLの隠匿性を維持できる機能を追加しました
というわけで関連する情報を目にすれば興味を持って読んでるうちに、
はっきり言ってこんなサービス、やろうと思えばどこの会社もすぐできたはずなんです(実際そのように言っていた方も見かけました)。それをなぜやらなかったか?(物語を語ろう。物語を創ろう。|Gumroad の問題点についてもう少し掘り下げてみました。)
という疑問を見かけました。
実は私も類似のサービスを数年前に思いついて、起業できるか考えたことがあるので、この疑問には答えられます。
答:やってみようとすればわかる。(苦笑)
いや、規制のせいです。ほんとそんだけ。
以下、起業家の視点で、この手のサービスがどう規制に阻まれてしまうかを書きます。正確なところは法律家に聞いて下さい。関連する法律はこんな感じ:
- 出資法(1954年)
- 銀行法(1981年)(施行令、施行規則)
- プリペイドカード法(1989年)(施行令、施行規則)
- 犯収法(2007年)(施行令、施行規則)
- 資金決済法(2009年)(施行令、資金移動業者に関する内閣府令)
なぜ PayPal は日本から生まれなかったのか
ディジタルコンテンツ売買決済をサービスしようとすれば、およそ以下の3つの方法が考えられます。
(A) 買い手からあらかじめお金を預かっておいて、それを代金に充てる
(B) 買い手がポイントを購入しておいて、それを代金に充てる
(C) 売買に応じて対価を送金する(現金を運ぶのはナンセンスなので、現金は運ばない=為替取引になる)
PayPal は(A)と(C)をやってます。
ここで、日本でお金を扱う商売をするときの大原則を見ておきましょう。これ豆知識な。
- 商売で人からお金を預かっちゃいけない(出資法)→ (A) は禁止
- 為替取引は、銀行しかやっちゃいけない(銀行法)→ (C) は禁止
PayPal 使ってる人は知ってると思うけど、2009年まで日本で正式サービスしてませんでした。それまで―資金決済法ができるまで―違法だったからです。そして資金決済法ができても、(A) は資金移動業者に許されてません。だから PayPal で「入金」しようとすると、日本ではダメって言われるでしょ。
日本から PayPal が出なかったわけは、PayPal のサービスが違法だったから。簡単。
この時点で、何が「自由のもたらす恵沢」(憲法前文)だ*%#@!、とか私などは思うんですが、まあともかく (B) のポイント制は残ってる。
なぜニフティ @pay はサービスをやめたんだろう
(B) のポイント制は、プリカ法の(多分)改正前だったらできた。でも資金決済法施行直前の時点(2009年)では、ポイントをあらかじめ購入してそれを代金に充てるという (B) のサービスは、登録許可制になってしまっていました。条件いっぱい。そのひとつは純資産が1億円あること。(ポイント発行残高と同額の資産でよくね?) さらに犯収法との関連で、本人確認が義務付けられた。
上で参照したエントリでニフティの @pay サービス終了に言及されてます。私は @pay って知らなかったんだけど、理由は想像つく。@pay が (C) の為替をやってたらそもそも違法行為なのでそれに気づいたか、(B) のポイント制をやってたらプリカ法が改正されて(あるいはすでに改正後で)規制に引っかかることに気づいた、ってところでは。ニフティは本職のユーザ登録では本人確認してないんじゃないかな。
参考:Biz-IT:インターネット法制度を知る!|第7回 電子マネー!
現状はプリカ法に代わって資金決済法が施行されてます。そして今、(B) のポイント制による少額決済は日本で完全に潰されました。なぜいわゆる「ポイント」は換金できないんだろう?と思ったことはありませんか。最近話題の Grow! はもらったチップを現金でなくアマゾン商品券にしかしてくれないんでしょう?
それは、資金決済法がポイントの換金(払戻し)を禁じているからです。つまり、一度ポイントを買ったら、それはお金以外の「物」になってしか相手に渡らない。
いま日本で可能なネット決済は (C) の為替のみです。
なぜ日本で Gumroad が生まれないのだろう
資金決済法は「資金決済システムの安全性、効率性及び利便性の向上に資する」(第1条)ためにできたことになっています。そして確かに、それまで銀行法で禁じられていた為替を「資金移動業者」が行えるようになりました。じゃあそれになればいいんですよ、とりあえず。
しかしそれは登録許可制です。その登録を得るためには、(どんなに少額の決済をやろうとしても)一千万円以上の保証資金を用意し、どんな社内体制で、どのような方法で商売をするのか説明し、さらに状況が悪化した時でも収益が見込めると(投資家ではなく!)政府を説得しなければならないのです。信じられん。失敗する自由がないわけだ。
そして晴れて登録が受けられても、本人確認が待っている。100円の決済をするのに Gumroad のように35円が得られるとします。本人確認のための人件費と郵送費はそれで賄えますか。無理です。最初の壁が超えられません。
Gumroad と同じサービスを日本でやろうとすれば、それは明らかに違法です。(C) の為替をやるのに本人確認をしないという一点からだけで分かる。だから Gumroad は日本からは生まれないのです。
ちなみに Gumroad のサービスそのものは違法じゃないです。資金決済法にこうある:
第六十三条 第三十七条の登録を受けていない外国資金移動業者は、法令に別段の定めがある場合を除き、国内にある者に対して、為替取引の勧誘をしてはならない。「為替取引を提供してはならない」じゃなくて、ですよ。ここ試験に出ます(笑)
なぜ今 PayPal は日本でサービスできるのか
Gumroad と違って PayPal はちゃんと登録を受けたようです。こんな記事↓もあるし。
この記事では、PayPal が日本市場の規制緩和に努力し、緩和されたら一気にスタートみたいに書いてあります。でも私に言わせれば全く違う。PayPal は1998年にスタートしていて、日本人は(銀行以外は)2009年まで誰もスタートが切れなかった。2009年の時点で日本人は大きなハンディキャップを負っているのです。
PayPal がスタートアップ時に今の日本の法規制をクリアしてサービスを始められたか? 少なくとも、今の PayPal がやるよりは比較にならないほど困難だったと思います。それはつまり、今の法規制がスタートアップを阻害していることに他なりません。
そしてその法規制は、PayPal 自身が意図してるかどうかは別ですが、PayPal の既得権益を保護するように働いているのです。スタートアップの参入は困難で、参入できるのは銀行やクレジットカード会社などプラットフォームと体力があって登録のコストを引き受けられるところばかりでしょう。しかし儲けは薄い。本業で儲かっているなら(そしてその本業も法規制で守られている)儲からない分野に参入する動機は弱いでしょう。
いつものパターン?
日本経済の歴史はまったく詳しくないけど、これ同じことを繰り返してるんじゃないかなと思うのです。日本で規制されている間に Gumroad あるいは類似のサービスが海外で大きくなり、日本と世界を席巻する。「Gumroad」を「PayPal 」に置き換えてもそうだし、きっと「クレジットカード」もそうじゃないのかな。
日本のこれらに関する法体系は、基本的にすべてを禁止(出資法と銀行法)しているので、サービスが政府や立法者に明らかになってから特別に許すようになってます。イノベーションは政府や立法者が分からないところにこそ起こる。だから出資法と銀行法が現在のままである限り、日本において決済のイノベーションは原理的に起きないと思う。起きるとすれば、脱法行為か、海外から来るかのどちらか。
日本において、銀行(両替商)や為替が、出資法や銀行法の前に成立しているのだって、そういうことでしょう。
規制は必ず利用者の保護を目的に導入されます。それはサービスへの要求を高めることです。だから規制は必ず新規参入を阻害し、規制導入前に始めた業者の既得権益を確立する。これがいつものパターンなんじゃないかな。
何のための保護なのか
資金決済法の制定に関わった人へのインタビューを、このエントリを書くときに見つけました。
NRI:金融ITフォーカス2010年6月:金融×IT対談 [PDF]
天を仰ぐ、とは、まったくこのことです…。ネット決済業を自分でやろうとすれば、一番コストが高いのは本人確認だとすぐ分かるのに。
資金決済法が、その目的のひとつである「決済の利便性」を向上できずに失敗したことは明らかです。法が施行されて2年半あまり経ちました。世界屈指の GDP を持ち、ネット大国のひとつである日本の、世界最大の都市である東京を抱える関東財務局で、資金移動業者の登録はなんと、たったの19社です。
関東財務局:登録会社等一覧
そしてまともにサービスしている業者は、私の知る限りひとつもありません。(そりゃ Gumroad が話題になるくらいだから…)
安全や保護もいいけど、サービスがそもそも無ければ意味がありません。分かった、日本の資金決済は安全だ。できないけど。
どのようなテロや組織犯罪をどの程度我々は想定するのか
現金の受け渡しによる決済が日常生活からどんどん減り、代わって銀行振込や自動引き落とし、クレジットカード払い、カードへのチャージと支払いが増えていますよね。これら現金以外のお金の受け渡しは、犯収法によってすべて本人確認が義務付けられています。10万円以下などで本人確認が不要なのはあくまで例外として規定されているだけです。
ネット決済を例にとっても、この本人確認は我々犯罪やテロと無関係な個人に負担を求めます。その度の面倒だけでなく、便利なサービスが立ち上がらないこと、そしてそれによる雇用増で職を得られないこと。
でも、私は思うんですよ。近年の日本で組織犯罪やテロと呼べることで大きな被害が出たのは、
ともかく、そうだとすれば、組織犯罪やテロを防止するために最初に見なければいけないのは宗教団体の金じゃないのかと。
もちろん、組織犯罪には金がかかるから金の流れをチェックするのは犯罪(もしあるとすれば)の防止に有効でしょう。でも、それをやることで、その他の大多数の、犯罪と無関係などころか生活に必要な金の流れを阻害していていいんでしょうか。
ちょっと喩え話。犯罪では人の移動がある。だから駅の改札で毎回必ず本人確認を義務付ければ、犯罪の防止に有効だ。じゃあやりますか? それじゃ学校や会社に着けないって?
同じだと思うんですよ。金の流れ、人の動き。どちらも人の通常の行いだから、生活にも犯罪にも当然使われる。
GDP は単位時間(年)当たりの取引額で、簡単に言えばお金の速度です。お金の速度を上げれば GDP が上がる。改札での人の流れを本人確認で阻害すれば、電車の輸送力が落ちる。同じように、お金の流れを本人確認で阻害すれば、GDP に負の影響を与える。
世界経済のネタ帳:日本の GDP の推移
犯収法は2007年施行ですが、GDP の低下と関係ないのかな。犯罪のためのお金を GDP に含めたくはないけれど、犯罪と無関係だけど無名の取引だって GDP には寄与していたはずでしょう。
もし本人確認が GDP に悪影響を与えてるとすると、我々は(どの程度のものがどのくらいの頻度であるか分からない)組織犯罪を防いではいる(かも知れない)けど、そのための不景気で、就職ができない大量の新卒を出し、もしかしたら事業が立ち行かなくて自殺する人を出してるかも知れないと思うんですが…
善良な一般市民が過大な負担を負わないように犯罪を防いだり捜査をするのが警察の仕事でしょう。それに、犯罪防止と捜査のためには犯罪に関係あるお金の動きさえ追えればいいはず。すべての人に関する金の動きを、しかも市民に記録させるなんて、手を抜き過ぎではないのかな。必要なら税金は払うけど、経済を妨げてはいかんと思うよ。
(児ポ法関連で出てくる情報の単純所持違法化も同じ構造だけど、これについてはまた機会があったら。)
まとめ
イノベーションは自由の下でしか起きません。他者に危害を加えない限り自由、という状態を超えて保護をする(=他者に危害を加えないのに規制される)ならイノベーションは阻まれます。そして決済に関しては、出資法と銀行法のために、日本では全てが原則禁止です。許される時には犯収法がコストを上乗せする。
だからクレジットカードも PayPal も Gumroad も日本からは生まれない。そう思います。
そしてそのこっち側には、保護されたい、安全を求める我々がいます。我々が安全と保護を求めれば求めるほど、法規制が行われ、業者のサービスへの要求が高まり、イノベーションが阻害されあるいは既得権益が確立し、その結果として我々は不便と不況を被るわけです。
日本のサービスは安全です。職はないけれど。
2012年2月26日日曜日
Bunkamura のフェルメール展に行ってきた
Bunkamura|フェルメールからのラブレター展
いま見ると妙な題名だなぁ。別にフェルメールが書いたラブレターが展示されているわけではないですよ。
特集ページに写真のあるフェルメールの絵3点が来てます。
(あまり馴染みのない人のために:フェルメールの作品は三十数点しか現存してません)
今回の売りは修復された《手紙を読む青衣の女》で、確かにとてもよかった。鮮やかに復元された(であろう)色と、それによって表現された顔や手の表情。入館料が1,500円で普通よりちょっと高かったけど、他の2点を含めて、これなら十分です。でも前売り買っとくんだったな…
フェルメールが突出しているとは言え、他に展示されてるオランダ絵画の中にも気に入ったものがいくつもありました。特にヘリット・ダウの《執筆を妨げられた学者》はよかった。自分の部屋用に欲しかった(←無理)。絵葉書あったら買ったのにな。
美術館に着いてから、そうだここは週末は混むんだっけ(汗)と思いきや、チケット売り場はほとんど並んでおらず。しかし中に入ったらやっぱり混んでた(苦笑)。まあフェルメールは日本で人気あるらしいし、仕方ない。でも行くなら平日の方がよさそうです。
フェルメールって観たことない、でも興味あるって人には、来てる3点はがっかりさせないと思います。入館料の1500円は高いけど、フェルメール展はだいたいこんな値段設定みたいです。夏に今度はマウリッツハイス美術館展があって、これも1600円。今度は前売り買うの忘れないようにしよう。
あとやっぱり単眼鏡が便利。こういう混んでる展示会では1列目は流れないと後の人に悪いので、細かいところやもう一度見たいところは後で2列目以降から単眼鏡で観たりしてます。
以前使ってた単眼鏡はこれ→ESCHENBACH(エッシェンバッハ) 単眼鏡 クラブM 6倍 4293-616。片手で持って焦点を合わせられるのが素晴らしい。紐を巻いてソフトケースに入れて便利に持ち運べる。
これに不満はなかったんだけど、今は別のを使ってます→CZ ルーペ単眼鏡 Mono 4x12T*。明るく見えるし、最短合焦距離が約45cmと短いので上からショーケースを覗くような展示のときに良く見えて便利。筒を引き出すような焦点合わせ方法だから両手使わないと難しいけど、おかげで複雑な機構がないためかコンパクトなのでいつも持ってます。会議でパワポの字が小さくて見えないときにも重宝します(笑)
フェルメールの絵は数が少ないので、つい「そのうちいくつ観たか」とか思ってしまうんですよね。そういうもんじゃないのに(苦笑)。
2012年2月23日木曜日
私が大学を辞めるわけ (2):震災と原発事故
実は母親がひとりでいわきに住んでいます。長男としてはいつまでも放っておけないと前々から思っていました。放射線量は、年末年始に行ったときにはまだ線量計を持ってなかったのでよく分からない。でもまあ、食べ物とか含めて、それほどいい状況のようには思っていません。
放射線量計は今これ↓のType1を持ってます。Type2ほしい〜
Radiation-Watching.org:ポケットガイガー iPod/iPad/iPhoneにつながる放射線センサー「ポケガ」、3700円から!
(うひゃ〜すげぇアフィリンクっぽいw けど違いますw)
将来いわきに移住することも考えていたんだけど、まだ状況が不安定かつ先行きも不透明なので、とりあえず母親をこちらの方に呼び寄せて一緒に住もうと思ってます。一応、3世代同居を常々提案しているので実践も兼ねて。てかまだ子供いないから2世代 (^^;;
具体的にどこに住むかは考えてません。とりあえず東京近辺には十分住んだから、東京へのアクセスのそれほど悪くない田舎かなぁ。
原発事故に関しては、ツイッターでよくつぶやいてる通り、私は日本の政治的意思決定の失敗じゃないかと思っています。同じような失敗を繰り返さないためにはどうしたらいいか。そのために自分がやれることは何か。そう考えたら、専門外の大学教員として意見らしきものを言っていても何の役にも立たないと気づいたのです。これも辞める理由のひとつ。
じゃあ大学を辞めればどうにかなるのか。それはまだ分からない…
もうひとつの英語勉強法 (1):会話ができるためには何から学ぶ?
今回は、日本での普通の英語学習になぜか決定的に欠けていて、でもそれが英会話がうまくできるためにとても大事だという項目について書きます。
なぜ英語が聞こえない?
ホームステイを長くやったのに英語がうまくならなかったなどという話を聞きませんか。私はアメリカに研究員で行ったとき、そこの大学(かなりレベル高いところです)にいる日本人学生や研究者の、特に聴き取りの力が平均してかなり低いことにびっくりしました。何年もアメリカにいる人でもそうなのです。
これは、単に量をこなしただけでは聴き取り力が上がらないことを示しています。
ちょっと日本語のことを考えてみましょう。あなたが誰かと話していて、その相手が例えば「ほぴめる」と言ったとする。そんな言葉はないけど、あなたは相手が「ほぴめる」って言ったことは分かります。なぜか。それは、あなたが hopimeru、母音と子音では h, o, p, i, m, e, r, u の全ての音を知っているからです。
では英語はどうか。あなたは、相手が(発音記号で書いたとき)「miθ」と言ったとき、それが m, i, θという音だと分かるでしょうか。
これは、聴き取りにおいて根本的だと思います。耳で聴いて「miθ」だと分からなければ、もしも myth という語を知ってても、それと分からないんだから、会話をしようとしても無理。これはまるで、将棋の駒の動きを知らないのに将棋で勝とうとするようなものです。
なのに、日本の学校英語教育や、普通の英会話学校では、この根本的なところをほとんど教えていないように思います。経験上、ほとんどの学生は、英語の音が聞き分けられません。
じゃあどうする?
英語が聞こえる前提条件は、英語を構成するすべての音が聞き分けられることです。
いやいや待てと。聴いても聞こえず、量をこなしてもダメならどうするんだ。英語耳はX歳までとも言うし…
そこで私が勧めるのは、まずは英語の音を作れるように発音の練習をすることです。単語ではなく、個々の音(母音や子音)の作り方を知り、それを練習します。
具体的には以下のようになります。
- 正しい音を聴く。
- 音の出し方を学ぶ。口の形、舌の位置、息の使い方などを教わる。
- 正しい音に近い音が作れるように練習する。
学生に教えるときは、私が発音して(1番)、音の出し方を黒板とかで説明し(2番)、発音させて軽くチェックします。あとは学生にお任せ(3番)です。このやり方で20分くらい教えると、例えば単独のL音とR音なら8割くらいの学生が聞き分けられるようになります。
英語耳はX歳まで?
英語ネイティブから習ってる小さい子供が、やたらとネイティブっぽい発音を習得してるの見るとむかつきますよね(笑)。でも私は「英語耳はX歳まで」ってのを信じてません。大人でもやり方次第で英語は聞こえるようになる。そう思ってます。私が証拠だし、私が教えてできるようになった学生たちが証拠です。
小さい子供は音に慣れるのが早い。大人は日本語の音に長く慣れているので、新しい音に慣れるのは当然時間がかかる。でも、それだけだと思います。慣れる対象としての音と口の動きが分かってしまえば、あとは慣れるだけ。
2012年2月22日水曜日
トランクルームを見てきた
2012年2月19日日曜日
いぇっとあなざー英語勉強法
自分の研究でも、英語論文を読む必要があるし、学会では英語でも発表する。そこで、英語そのものも勉強しつつ、英語の効果的な学び方や教え方についてずっと考えて、また教えてもきました。
まあ世には「英語勉強法」が数多あるわけですが、そんなわけで私もひとつ書いてみんとて書くなり。
とは言え、「英語上達完全マップ」のように体系的なものが書ける気はしません(というかこのサイトはなかなかいいと思う。おすすめです)。それよりも、ちょっとした役に立つノウハウが提供できればいいなと思っています。
おっと、そのノウハウがどのくらい信用できるか、ですよね。
私は普通の日本の学校教育で英語を受けてきて、大学4年までは十人並の英語力だったと思います。もちろん会話など全くできませんでした。その後、独学で試行錯誤して、10年くらいで自分の分野の学会で発表と質疑応答が問題なくできるまでになりました。TOEIC で言うと910点。「日本で、独学で」という条件の下で900点以上が取れたのは悪くないと思います。
そのあと1年在米して点数は965まで上がりましたが、そのあと受けてません。あんまり TOEIC に儲けさせても仕方ないし (^^;;
今は、学生に国際会議で発表させるときに2か月くらいで発音と会話を叩き込みます。これまで3人ほどにやりました。それまでの英語力が十人並でも、発表がきちんとでき、ある程度の質疑応答ができるようになります。質疑応答の方は個人差が出ますけど。
というわけで、これからそういうノウハウとか教えたり学んだりした体験を書いていこうと思うので、役に立ちそうなら使って下さい。
とりあえず今回は「英語上達完全マップ」サイトのご紹介まで。ああ、あと私が a と the の違いを分かり始めた本を紹介しておこうっと。
この本は面白いし、日本人が「日本人の英語」から脱するポイントがいくつも書いてある超おすすめ本です。私が「英語をしっかりやろう!」と思ったときにちょうど出版されて、その後の職業にまで関わった、私にとっては運命の本のひとつです。おかげで今は論文をアメリカの論文誌に投稿しても文法誤りを直す編集がほとんど入らないくらい書けるくらいになりました。感謝感謝…
てか、一番驚いたのが、日本語ネイティブじゃないのにこの著者なんでこんな文章が書けるんだ、ってとこだったり(苦笑)
ちなみに続編も出てます。3作目はあんまり印象に残ってない (^^;;
次は何を書こうかな。←行き当たりばったりすぎるw