はっきり言って不満なんですよ。著作権サイドからしか問題を見ない議員の人々に対してだけでなく、人権の擁護を標榜する日弁連に対しても。本当に人権のこと考えてるのか、と。
私も本を多少出版してわずかにせよ収入を得ているから、著作権の意義だって分かってる。でも同時に、基本的人権を持つ一国民として、著作権によって人権が不当に侵害されるのは許せないのだ。そして、「知的財産権」を当然と思う人々が、無自覚に(じゃなければもっと怒りを感じるが)人権侵害を是としているのも。
何がどう人権侵害か、と言われそうだな。
表現の自由、言論の自由は皆が認める人権だよね。それは情報を伝える権利だ。情報を自由に伝えられないと、幸福追求を妨げるし、民主主義も機能しない。出版の自由や通信の自由もそうだ。
そしてもらった情報を使って自分で考えて、幸福を追求し、意見を定め、投票し、また情報を伝えて他人の幸福と民主主義に尽くす。そのために思想の自由や内心の自由がある。公権力によって制限されてはいけない。だよね。
わかった。これらの自由はあるとしよう。
じゃあ、本を読むことを禁止されたらどうか。出版は自由だ。お好きに意見を述べ、表現をしなさい。でも読んではいけないよ。あるいは放送が自由でも、テレビの視聴が禁止されたらどうだろう。
それじゃ表現や言論が自由だって意味がない。情報を受ける自由がなければ、情報を発信する自由があったって何の役にも立たない。
授業でノートを取ることが禁止されたらどうか。好きな授業を聞きなさい。でもノートを取ってはいけないよ。あるいは本を所有することが禁止されたらどうか。本を読んでもいいが、読み返せるように所有することは禁止する。
それではいくら思想の自由があっても、まともな思想などできない。人間の記憶力は情けないほど弱い。それを補うために人は情報をとっておく。その蓄積された情報へのアクセスがなければ、幸福追求も、社会の改善もおぼつかない。
表現・言論・出版・通信の自由という「情報を送る側の自由」は、情報を受け取る側の自由がなければ意味がないものだし、思想の自由は、その思想の材料となる情報の保持の自由がなければ意味がないんだよ。
だから私は、「触れた情報を取得し保持する権利」は人権だと言ってるんだ。私の主張というより、表現の自由や思想の自由からの論理的な帰結として。(そうでないと言うなら、この権利なしに表現の自由その他がどういう意義を持つのか説明してほしい。)
日弁連には、会長声明を見たりしても、どうもこの視点が不足してるように思えてならない。捜査の過程でプライバシー侵害が起こる、ごもっとも。それも問題だ。でもその前に、(どのような経緯で公開されたにせよ)公開されている情報を取得し保持する個人の行為を禁止すること自体が人権の制限であることが見えないのか。
(小倉弁護士や共産党の宮本たけし議員はこの視点を持ってるように見える。小倉さんは例の日弁連の集会で「知る権利」という言葉を用いて主張していた。でもそれは無理だと思う。「知る権利」は、政府が持っている情報を公開させるという(私に言わせれば)基本的人権に含まれると言い切れない権利を主に表す言葉になってしまっていて、もう説得力を持たない。)
触れた情報を取得し保持する権利。この権利を人権とはっきりと認識し、その上での議論なら構わない。表現の自由だって、名誉毀損などの他者危害に関しては制限される。同じように、情報取得と保持の自由という個人の人権よりも、その一度のダウンロードで著作者が失うと見積もられる金銭的利益の方が重いと皆が思うならば、人権の方を制限したらよろしかろう。
(念のため。ここで言う人権は、公権力に対する権利のことで、私人の間の話ではありません。ライブ会場で演奏を撮影するのがダメなのは、私人間の契約によるもの。「情報取得と保持の自由」とは無関係です。)