著作権の強化は、最近の違法ダウンロードや自炊代行問題に始まったわけではなく、何十年も前から続いているんだよな。ソフトウェアが著作物になるとか、レンタル店にビデオの複製機を置くことが違法化されるとか、そんなことがずっと続いて、権利が強くなる一方だ。全く歯止めがない。
最近は「知的財産権」という言葉が作られて、その言葉に合わせるように権利が強化されるというよく分からない状態になっている。
レコードレンタルが現れたとき、賢いけどずるい商売だなぁと思った。ビデオ複製機は、そりゃレンタル業じゃなくて複製業だろと思った。そういうのが規制されるのは、まあ仕方ないし当然と思ったよ。
でも最近の規制の強化、権利者が公権力の力を借りてまで個人が持つ情報に手を伸ばすという状況には、それとは違う気持ち悪さを感じるんだ。
目の前に、壁全面の本棚がある。マンガはだいぶ捨ててしまったけど、小学生のときに買った工作の本から、最近買った法律の本まで。時間をかけて少しずつ読み、ことあるごとに読み返し、大事なところに線を引いたりして、中身とその本自身を自分のものにしてきた。自分の血肉にしてきた。
そう思ってた。
いま見える本のうちいくつかは、自炊代行に出してもスキャンしてもらえない本だ。何十年も前に買ったものもある。いや、長い一覧を見なければ、どれが自炊代行に出せない本か正確には分からない。
それらの本は、私が自由にできない本だ。つまり、私のものでない本だ。ある使い方だけが著者によって許された、借り物だ。これまでかけてきた本代は、本の利用料だった。
私の本棚は、つまり私の知は、私の血肉などでなく、借り物だったのだ。
私は筒井康隆の本が好きだった。何冊も買った。気に入ったものはぼろぼろになるまで読んだ。学生になくされても新しく買った。私は宮城谷昌光の本が好きだった。文庫化が待てずハードカバーで買った。
今、目の前に並ぶそれらの本に、愛着を感じてない自分がいる。知は誰かに所有されており、私のものにはならない。いくら読んでも、たとえ一字一句暗記しても、それは著者の所有物なのだ。それが「知的財産権」なのだろう。
私の知は私の一部であり、私の知の大半はこの本棚だ。よい本を読むとき、これまでは著者に感謝の念を抱いてきた。しかし、著者が私の体の一部に手を伸ばしてきて「これは私のものだ」と主張するとき、どうして感謝できよう。
正直、テレビでそのような作家を見ると、敵意を感じるようになってしまった。司会をやってたりすると最悪だ。
私はそれがとても悲しい。
これは、必要なことなんだろうか。
私は、私の本棚を取り戻したい。私の知の歴史であり現在であり、私自身の一部である、愛せる本棚を取り戻したい。
それとも、もうそれは叶わないんだろうか。