2012年7月7日土曜日

違法ストリーミングでの動画視聴も違法化する方法

違法アップロードされた動画を私的にダウンロードすることが、違法アップロードを助長し、権利者の利益を損ねているのなら、違法ストリーミングを視聴することだってダメでしょう。同じ話だ。取り締まろうよ。

現行著作権法でできるやり方を考えた。複製とは、第二条の定義によれば、「印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製することをい」う。ハードディスクにダウンロードすることも、「その他の方法により有形的に再製」してるなら、ストリーミングの動画を視聴して頭の中に入れることだって「有形的に再製」と呼べるのでは。(むしろ「有機的」?) だからストリーミングを視聴するのは複製行為だ。

頭の中に入れたものは、歌詞だって、メロディーだって、技術があればアニメ30分だって、もう一度作り直せないこともないよね。そうやって作り直したものは、権利者の利益を損なう恐れがある。いい理由だ。これで、違法ストリーミングを視聴することで頭に入れることを、私的複製の範囲から除外して、違法化できる。やったね。

マジレス勘弁ね。

情報の本質って、複製だと思うんだよね。誰かが知ってることを誰かに伝えるとき、元々持ってた人の頭の中からその情報が消えるわけではない。ならば情報伝達とは、複製の一種だ。敢えてメディアを廃棄するなどの行為をしない限り。いや、廃棄したって頭の中から消すことはできない。

そして、もし情報伝達が複製でなければ、著作権なんて不要だ。情報複製のコストが低いから著作権なんてものが必要になったんで。

コピーライトはもともと、「海賊版」を出す印刷業者を規制して「正規の」印刷業者の利益を守るための仕組みだったようだ。当時はディジタル技術がもちろんないので、複製といえば本を印刷することであり、印刷機など持たない一般人はせいぜい手書きくらいしかできなかったろう。そもそも、売る以外に、自分で同じ本を複製する理由など考えられない。だから、複製とは売って利益を得る目的の行為であり、複製を禁止することは「正規の」印刷業者の利益を守ることに直接つながったんだと思う。

今は違う。私が仮に音楽 CD の内容を CD-R に焼くとしても、その目的は売るだけではない(てか売らないし)。例えば、炎天下をよく移動する車にオリジナルの CD を置いたらジャケットもディスクもかわいそうだから、車では CD-R で聴くとか、そういう用途だってある。あるいは、自分で紙で持っている本を、iPad でも読みたいからスキャンする。こういう複製があり得る。つまり、昔は成立しただろう「複製=売るため」という等式が、今は成立しない。

ならば、本の時代は適切だったと思われる複製権の独占は、今の時代に合っているんだろうか。

著作権法における「複製」という言葉の意味は、日常生活での意味から離れている。

少なくとも私の国語感覚では、複製とは、ここにいま本が1冊あり、それと同じ本を例えば1冊作ることだ。印刷時代の本の印刷は、だから複製である。いや、本を作らなくてもいい。持ってる本を、スキャンして PDF にする。これも複製だ。

しかし著作権法では、上で引用したように、何らかの方法で情報を有形的に再製することをすべて複製と呼んでいる。テレビ放送を自分のハードディスクレコーダに録画することも、複製になる。テレビ画面を写真に撮ることも、きっと複製。

情報の本質が複製であり、情報伝達が原理的に複製だとすれば、複製権の独占とは、情報伝達の独占ということになる。これ、第四十九条が如実に示している。
第四十九条 次に掲げる者は、第二十一条の複製を行つたものとみなす。
これ以下7項目、およそ普通に考えて「複製」とは思えないものが複製と見なされている。全ての項目に「複製」や「録画」という言葉はもちろん入っている。当たり前だ、何をしようとしたって、創作者が最初に作ったもの以外は、全てその情報の複製なんだから。

思考実験で、複製権が本当に権利者に独占されている状態を考えてみた。つまり、第三十条の私的複製が一切許されてない状態。私的複製が、特に積極的な権利でなく例外であって、ダウンロード違法化のように状況によって好きに制限できるならば、私的複製の全く許されてない状態が、著作権あるいは著作権法が想定している基本的な状態だろうから。

すると、情報の受け手は、著作物を見たり聞いたりすることはできるが、それについて一切の記録を手元に残してはならないことになる。加えて第四十九条で、情報を提供する行為も(複製と「見なす」ことにより)権利者に独占されているので、人に伝えることもできない。

ある情報について、正確な知識を個人に与えず、それを受け取り、あるいは伝えることを権利者が独占する。逆に言うと、個人は、権利者が指定する形態で与えられる情報を、記録を取らずに受け取ることだけが許される(それも複製と見なしたら、ってのが冒頭の駄文w)。著作権法の大枠は、こうなっているみたいだ。まさに、情報に対する所有権だな。

そして、私的複製の範囲はどんどん狭められている。

元々、海賊版業者による印刷(すなわち販売)を止めることが目的だったと思われるコピーライトが、どうして特定の情報が複製されたり受け取られたりすることを情報の「所有者」がコントロールできる「著作権」に変わってしまったんだろう。

こういう「情報の私有」と、著作権法が謳う「文化の発展」は、どうもうまく整合してる気がしないんだよな、私は。

2012年7月3日火曜日

音楽ビジネスの発展を妨げる著作権法の仕組み

違法ダウンロードを刑罰化したり、ある種の私的複製を禁止したり、いろいろと著作権法をいじってますが、それは著作権法が目的とする「文化の発展」に寄与してるんでしょうか?

そんなの正直言って分からない。科学の実験と違って、禁止した場合としない場合で、その他の条件を完全に揃えて試すわけにいかないし。それに社会の状況は常に変化している。

でも、著作権法自体に、それを明らかに妨げる仕組みが入っているとしたら…

どうもそうなんじゃないかってことに気づきました。音楽ビジネスが発展しない仕組み。

一応私、著作権法に関する問題はずっと気にしてるつもりですが、これまで聞いた覚えがないので、書いてみます。(とは言え、最近記憶力に自信がない。忘れてるだけだったりして…)

2012年7月4日補足:以下、「原盤権をレコード会社に渡す」などの表現は、「原盤権をレコード会社が持つことにする」などと読み替えて下さい。原盤権は、録音した時に発生する権利で、録音前に著作者や実演家などが持っているものではないからです。詳しくはコメントでの議論をご参照下さい。

特許はなぜ問題になってないんだろう


突然ですが、特許の話です。

著作権も特許権も、まとめて「知的財産権」と呼ばれたりする。だから著作権と特許権は似たようなものだ。

いいえ、それは大間違いでした。実は著作権と特許権は、ほとんど正反対の効果を持っています。音楽ビジネスに関しては特に。ってことに気づいた。多分。

特許は、簡単に書くとこんな制度です。(参考:特許法

いいアイディアを思いついた人が特許を取り、特許権を持つ。特許権者はそのアイディアを実現して(特許を「実施する」と呼ぶ)お金を儲ける権利を一定期間独占します。

特許権者は、特許を実施する権利を他人に与えることができます。与えるのは「実施権」です。たとえばあなたがとても役に立つ発明をして特許を取ったら、メーカーにその特許を実施してもらってお金をもらうこともできる。

もしも複数のメーカーが、あなたの特許を実施したいと言ってきたら、対価(特許使用料)の額など、一番条件のいいところに実施権を与えればいい。ここでメーカーの間に競争が働きます。もっとも低コストで、もっとも利益を上げられるメーカーが、一番いい条件をあなたに提示してくるでしょう。

実施権の与え方も、どこかのメーカーに専用させて高い使用料を取るか、いくつかのメーカーに与えるか、その期限はどうするか、契約でいろいろにできる。(参考:溝上法律特許事務所 事務所報 論説~特許権の実施契約について~

さて、著作権をめぐるごたごたは長々と続いていて、コンピュータやネットが一般的になってからは普通の人の生活を刑罰で脅かすまでになっています。

しかし特許については、ビジネスモデル特許が一時期話題になったくらいで、大して問題にもなってません。それどころか、発明は今でも私達の生活を豊かにし、そこにはきっと発明を実施するための手段としてコンピュータやネットが役に立ってるはず。

どうしてこんな違いが出るんだろう。

音楽に関わる著作権


現在の音楽ビジネスの主流は、まず演奏を録音して、それを複製するなりネットで配信するなりして儲ける、というやり方ですよね。ライブもあるけど、儲かる額はだいぶ少ないはず。あとは、楽譜を売るとか、音楽を演奏するソフトウェアを売るとか…これらは主流にはとりあえずならなそう。

というわけで、音楽で儲けようとする人は、何はともあれ音楽を演奏して録音し、CDや音声データ(著作権法の用語で「レコード」)にする必要がある。話を簡単にするために、歌詞のないインストゥルメンタルの曲だとします。ここで少なくとも3種類の人が関わってくる。


それぞれの人が、例えばCDの譲渡についてどんな権利を持つかと言うと。

  • 作曲者:著作物を、複製物の譲渡により公衆に提供する権利を専有する(第二十六条の二
  • 演奏者:実演を、その録音物又は録画物の譲渡により公衆に提供する権利を専有する(第九十五条の二
  • レコード製作者:レコードを、その複製物の譲渡により公衆に提供する権利を専有する(第九十七条の二

「専有」って分かりにくい。それぞれが個別に権利を持つってことらしいです。

この3つめの権利、原盤権に含まれるわけですが、この権利のおかげで、レコード会社は自らがレコード製作者となって原盤権を得ることで、いくらでもCDを作って売れる。

音楽業界では当たり前の話なのかな。でも、原盤権をレコード会社に渡さないアーティストもいるらしいし。

特許と比較してみる


特許では、発明者が特許権を持ち、実施者に実施を許すことで、実施者間で競争させることができる制度になっています。それによって、発明を促し、発明の有効利用を図っている。同じことが音楽で起きるか見てみます。

文化を作るのはまず創作者です。ここでは作曲者だけでなく、演奏者も創作者に入れることにします。(同じ曲をうまい人が演奏した場合と下手な人が演奏した場合では文化的貢献は違うと考えて。)そして、創作者に利益を与えることで、創作を促し、創作物の有効利用を図る、と。悪くないよね。

著作物に関しても、特許における実施者と同じように、創作者の創作を、実際に役に立つ形にする人が必要だ。具体的には、演奏を録音し、配布する仕事をする人が必要。それがレコード会社だ。発明者と実施者の関係になぞらえて、創作者と実施者(=レコード会社)という関係があると言える。

ここで、特許と著作権の大きな違い。特許制度が発明の内容そのものを保護するのに対して、著作権制度は表現されたものを保護します。だから上に書いたように、音楽を売るには何はともあれ演奏を録音しなきゃならない。

しかし、録音した時点で原盤権をレコード会社に渡すと…

著作権法は、著作者や実演家と分けてレコード製作者を規定しています。レコード製作者が別の人であるとは、原盤権をその人に渡すということ。著作権法は、原盤権が著作者でも実演家でもない「レコード製作者」(レコードを複製して公衆に譲渡する権利を与えているので、きっとレコード会社)に渡されることを想定している。

…原盤権をレコード会社に渡すとどうなるか。その録音(レコード)の複製権や譲渡権はレコード会社が専有することになる。だから、同じ録音を他のレコード会社なりネット配信会社に渡して売ってもらうことは、著作者にも実演家にもできなくなる。

つまり、特許制度とは違って、実施者間の競争が働かない仕組みを著作権法自身が規定してしまっている

例えて言うならこう。あなたがとてもいい構造の自転車を発明した。その発明を実施してもらうために、設計図をメーカーAに渡してステンレスで作って売ってもらった。そのうち科学技術が進み、カーボンファイバーが得意なメーカーBが現れたので、そこに作ってもらおうとしたら、設計図をメーカーAに渡した時点で特許権も渡したことになっていた…

これでは、よりよい材質で特許は実施できない。技術は進まないし、消費者への特許の恩恵はメーカーAが商品を作った時点で止まってしまう。

同じだよね。あなたがとてもいい楽曲を作って演奏した。それを録音する時に、レコード会社に原盤権を渡して、CDにして売ってもらった。そのうち技術が進んでネット配信ができるようになった。ところが録音を複製したり配信したり譲渡したりする権利はレコード会社が持っている。あなたの録音は、その会社が考えを変えるまで、CDでしか売られない。いや、売る気がなくなったらどんな形態でも売られない。

録音にお金がかかるから録音した人に著作隣接権を与える。理由としては妥当な気もします。でも特許に置き換えてみて。特許の実施にだってお金がかかる。青色LEDを製造するのにどれだけの金がかかるか。それを低コストで利益が出るように実施できる人が、実施権を得て、利益を得て、その利益を発明者に還元するんだよね。音楽でそれができない理由なんてあるのかな。

作曲者や演奏家が録音についての権利を保持するという前提で、もっとも良い条件で録音させてくれて、一番利益を上げてそれを作曲者や演奏者に還元してくれる会社が、著作権を「実施」する権利を作曲者や演奏家から託される。CDよりも利益の上がる配信方法があれば、それを採用する会社が有利になる。これなら競争が働くんだけどなぁ。あるいは競争によって、安く良い録音をさせてくれる業者と、低コスト高利益で配信する会社というように、分業が進むかも知れない。

著作隣接権の別の理由として、レコード会社に権利を与えることによって、さらなる利用が楽になり、普及に貢献するのだとも言われます。ちょっと前にあった、電子出版を普及させるために出版社に著作隣接権を与えるかどうかの話のときもこれがポイントになってた気が。

でもほんとかな。著作物はさまざまな利用方法が可能なはずで、特定の一社に排他的な権利を与えるなら、別の利用方法が阻害されるんでは。てかそれを我々は音楽について目の当たりにしてるのでは。

まとめ


今回の話では、作曲者・演奏者・レコード会社の三者だけで考えました。実際の音楽ビジネスでは、いろんなプレーヤーの役割や権利が複雑に絡み合ってるので、単純化しすぎと言われるかも知れない。でも、そこに現れるプレーヤーそれぞれの権利を著作権法は定めていて、それらの権利を与える前提として著作権法が想定しているビジネスの大枠は、確かに上に説明した通りだと思う。すなわち:

特許が実施者間の競争を促す制度になっているのに対して、著作権法は逆に著作物を特定の実施者(レコード会社)に独占させるようになっている。だから競争が起きず、同じ著作物を使った新しい技術の利用が阻害され、コスト削減やより役に立つ使い方ができずにいる。

とりあえず音楽に限ってはこういう観察が可能だ、というのが今回書きたかったことです。

違法DL刑罰化に関連して、コンテンツ産業が技術の進歩に合ったビジネスができてないって批判を聞くけど、その大きな原因のひとつが、競争を妨げている著作権法自身の規定じゃないか、と。

これが正しければ、「レコード製作者」に現在のような著作隣接権を与えているのは、著作権法の目的である「文化の発展」を逆に阻害していると言えます。

もちろん原盤権を渡さない契約も法律上は可能だけど、きっと力関係で、原盤権を渡す契約にサインせざるを得ないんじゃないかと推測してる。だったら著作権法は弱い方を守らなければいけないのでは…?

ちなみに著作権法は、放送事業者にも同様の著作隣接権を与えています。てことは!

関連サイト

クリエイティブビジネス論|著作権は20世紀エンタテイメント産業の副産物〜違法ダウンロード罰則化が成立しちゃった〜
この↑記事の重要な指摘は、(私の言葉で書くと)「著作権には、創作者の権利と、複製者の権利がある。いま問題になっているのは複製者の権利の方ではないのか?」。

著作権がもともと印刷業者のための制度だったのは本で読んで知ってたつもりだったのに、これ読んで初めてその重要性に気づかされました。そして、そして自分自身、あまり納得できずに20年ほども付き合ってきた著作権の意外な実体が見えてきた気がしてる。

今回の話はその一部です。他のこともそのうち書ければと思ってます。まだまだ勉強中。いかんせん全体が巨大で現実と絡み合ってて…今回は何とか切り出してまとめたって感じ。

今回の話の冒頭、「特許権と著作隣接権が正反対の効果」と書くべきだったかも知れないけど、いつか全体像を書く日のために、あえて「特許権と著作権が正反対の効果」と書いたままにします。

関連書籍など

福井 健策:「著作権とは何か」、集英社新書、2005年
著作権法専門の弁護士さんで、著作権の基本をたくさんの実例を交えながら丁寧に説明しています。
福井 健策:「著作権の世紀」、集英社新書、2010年
同じ著者による5年後の本で、著作権をめぐる状況の変化と今後について、やはり豊富な実例を使って分かりやすく解説しています。著作権そのものの説明はほとんどないので、ある程度わかっている人向け。
岡本 薫:「著作権の考え方」、岩波新書、2003年
元文化庁の著作権専門家による、著作権とそれに関連する状況の解説。新書にしては重厚な内容で、専門書に近いくらいの読みごたえがあります。「中の人」視点で書かれた、日本や他国(特にアメリカ)の動きや、著作隣接権の話が興味深い。著作隣接権は、単に政治力の強い業界に与えられてるだけって、ぶっちゃけすぎだ(笑)。でも今回私が書いたことと深く関係しそう。
山田 奨治:「〈海賊版〉の思想」、みすず書房、2007年
情報系の大学の先生による、著作権の起源に関わる論争を歴史として描いた本。読み物としても楽しい。
山田 奨治:「日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか」、人文書院、2011年
同じ著者が、近年の著作権の厳罰化の流れを批判的な視点から解説しています。ダウンロード違法化が決まった私的録音録画小委員会の様子を議事録から再現しているのが面白い。津田さん大活躍。
津田 大介:「だれが「音楽」を殺すのか?」、翔泳社、2004年
その津田さんが、レコード輸入権、CCCD、ファイル交換、音楽配信サービスなど、いくつかのトピックについて音楽業界の状況と問題について書いた本。インタビューや年表などもあり、脚注も見やすい配置で、内容だけでなく本全体のデザインでも楽しませてもらった。ちなみに私にとって初 tsuda がこの本…って、どうでもいいか(汗)。あとがきに、10年後には笑っていられるといいって書いてあるけど、まだまだ我々は苦しみそうです(苦笑)
安藤 和宏:「よくわかる音楽著作権ビジネス 基礎編 4th Edition」、リットーミュージック、2011年
音楽著作権に関係する業界の実際を、細かい項目に分けてマンガ入りで説明している。本はとても分かりやすいが、業界と権利の複雑さに目が回る。主として音楽で仕事をする人向けに書かれた本で、法制度については批判なく中立的。私が読んだのは 3rd Edition だけど、この新しい 4th でもきっといい本と思う。ちなみに実践編もある。
竹田 和彦:「特許がわかる12章 第6版」、ダイヤモンド社、2005年
特許に関連するビジネスをする人向けの実用書。リファレンス的に使ってるので通読はしてないけど、各項目は実例込みで分かりやすく説明されている。
あと、読まなきゃいかんかなぁと思ってるのがこれ↓。
中山 信弘:「著作権法」、有斐閣、2007年
しかし自分、そこまでしてどうすんのという気も(苦笑)

2012年6月21日木曜日

簡単! 読点の打ち方

文章力が上がる記事のまとめがツイッターで流れてきました。

NAVERまとめ:[保存版]読むだけで文章力が劇的に向上する良質記事まとめ8選+α

ふむふむ勉強になる、と読んでたんだけど、読点(、)を打つ場所を分かりやすく説明している記事があまりないみたい。「息継ぎするところ」とか「意味の切れ目」とか言われても、実際に文章を書く場面になるとよく分からないことが多いわけで。

研究室の論文指導では、やはり読点の打ち方に苦しむ学生がいました。そこで私は、読点の打ち方を簡単な手順にして、それで教えてました。長い文のどこに読点を打つか、その場所の見つけ方です。

ちょっと検索してみても似た方法が(あるんだろうけど)見つからなかったので、書いてみることにします。

あ、これはあくまで私のやり方で、一般的とか確立された方法じゃないので悪しからず。

基本手順


読点なしにはちょっと分かりにくい、こんな文。
「私が知っている読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれです。」
この文に読点を打ってみましょう。

1. 文を文節に分ける。

「文節」って国文法用語だけど、難しく考えることはなくて、要は「〜ね」を入れられる場所で切ればよいのです(と学校で習った)。私がね 知っているね …てな感じに。

分けました。
私が・知っている・読点の・分かりやすい・打ち方の・ひとつは・これです
国文法的には、正しくは「知って」と「いる」は別の文節、「分かり」と「やすい」も別の文節みたい。でもこの記事の目的は読点を打つことで、「知って」と「いる」の間などに打つわけないので、「知っている」とか「分かりやすい」をひとつの文節として扱っちゃいます。その方が簡単だし。

2. 文節間で「係っている」関係を矢印で書く。

文節の関係には、主語-述語の関係や、修飾-被修飾の関係とかがあるそうです。ここではそれらを引っくるめて「係る(かかる)」関係と呼ぶことにします。そして、ある文節が、後ろの文節のどれかに係っているという関係を矢印で書きます。

例文にあるのは以下の「係る文節→係られる文節」の関係です。
  • 私が→知っている
  • 知っている→打ち方(の)
  • 読点の→打ち方(の)
  • 分かりやすい→打ち方(の)
  • 打ち方の→ひとつ(は)
  • ひとつは→これ(です)
係ってるかどうか分からないときは、その2つだけをつなげて見ます。例えば、「読点の」が「分かりやすい」に係ってるか。「読点の分かりやすい」は意味不明なので係ってない。あるいは「知っている」が「読点の」に係ってるか。「知っている読点の」としてみると、言いたい意味と違うので(読点を知ってるわけじゃない)、係ってない。こんな具合に判断します。

係る・係られる関係として上に挙げた「私が→知っている」「知っている→打ち方」などは、元の文の意味の一部を表していることが分かると思います。

というわけで、このように矢印が書けます。


3. 長い矢印があったら、その根元にある文節の直後に読点を打つ!

この文では、「知っている」→「打ち方の」という矢印が長いので、その根元の文節「知っている」の直後に読点を打ちます。そしてあとは全部そのままで、分けた文節をくっつけて文に戻す。
私が知っている、読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれです。
はい、でき上がり!

何をやっているのか?


なぜ長い矢印の根元に読点を打つとよいんでしょう。

長い矢印は、大きな言葉の固まりを飛び越して意味が係っていることを表しています。飛び越された言葉の固まりは、係られる方の言葉を説明しています。上の例では、飛び越されている「読点の分かりやすい」が「打ち方」を説明している。これらが意味的にまとまって「読点の分かりやすい打ち方」となります。

そこに「知っている」が係る。この「知っている」も、その前の「私が」に説明されて、「私が知っている」というまとまりになってます。つまり、「私が知っている」が、「読点の分かりやすい打ち方」を説明している。この大きな構造を、長い矢印は表しています。


長い矢印の根元は、意味の切れ目であり、読点を打つよい場所なのです。

このような文を口に出して読むとき、「知っている」が直後の「読点の」につながって聞こえると「私が知っている読点」と誤解される恐れがあります。ここで少し間を空けると、そういう誤解が防げる。

だからこの場所は、息継ぎをするところとも言えます。

係る先が複数ある場合


係る先がひとつ明らかにある場合はこれでいいんですが、複数あるっぽい場合もあります。例えばこれ。
「塀を越えてきた大きくて白い犬と小さくて虎縞の猫がうちの庭で鶏と喧嘩をしている。」
この例で「越えてきた」の係り方は、「越えてきた→犬(と)」でも「越えてきた→猫(が)」でもよさそうです。

このように係る先が複数あるっぽい場合には、近い方に係ってることにします。遠い方に矢印を引いてしまうと、その矢印の根元に読点を打った時に、近い方の係り先に係ってないように読めてしまうから。

というわけでここでは「越えてきた→犬(と)」に矢印を書きます。
  • 塀を→越えてきた
  • 越えてきた→犬(と)
  • 大きくて→白い
  • 白い→犬(と)
  • 小さくて→虎縞(の)
  • 虎縞の→猫(が)
  • 犬と→猫が
  • 猫が→している
  • うちの→庭(で)
  • 庭で→している
  • 鶏と→している
  • 喧嘩を→している
「犬と」は「猫(が)」に係るので、「越えてきた→犬と→猫が」とつながります。


長い矢印は、「越えてきた→犬(と)」「犬と→猫が」「猫が→している」のところにありますね。この3つの矢印の根元に打ちましょう。
塀を越えてきた、大きくて白い犬と、小さくて虎縞の猫が、うちの庭で鶏と喧嘩をしている。
「越えてきた」が係る「〜犬と〜猫が」をまとめて一体と考えるなら、「犬と」の後には読点を打たず(直後の猫とつながってることにして)
塀を越えてきた、大きくて白い犬と小さくて虎縞の猫が、うちの庭で鶏と喧嘩をしている。
としてもよいでしょう。

接続の場合も「係り」として扱う


「〜したが」とか「〜するとき」とか「〜したのに」とか、前後をつなぐための助詞があります。接続助詞と呼ぶらしい。例えば
「私は姉が早く帰ってくると思って夕飯を用意したが結局姉は翌朝まで帰らなかった。」
という文では、「思って」の「て」、「用意したが」の「が」が接続助詞です。

これらの語は、後の何かに係ると言うより、文の中で前後をつないでます。つまりこれらの語は文中の意味的な切れ目を表していて、その直後は読点を打つ候補地になります。

ただ、これを主語-述語や修飾-被修飾の関係と別に扱うのは面倒です。どうせなら矢印で何とかしたい。

そこで、接続語は後の述語(のどれか)に係ることにします。述語をその後の部分の代表として扱うわけです。この例では、「思って→用意した(が)」「用意したが→帰らなかった」のように矢印を書きます。「思って用意した(が)」「用意したが帰らなかった」どちらも元の文の意味の一部を表してますよね。

では矢印を書いてみましょう。
  • 私は→思って
  • 姉が→帰ってくる(と)
  • 早く→帰ってくる(と)
  • 帰ってくると→思って
  • 思って→用意した(が)
  • 夕飯を→用意した(が)
  • 用意したが→帰らなかった
  • 結局→帰らなかった
  • 姉は→帰らなかった
  • 翌朝まで→帰らなかった
「私は」は「思って」と「用意した(が)」の両方に係ってるっぽいので、近い方で「私は→思って」とします。


矢印が長いのは「私は→思って」「用意したが→帰らなかった」くらいでしょうか。
私は、姉が早く帰ってくると思って夕飯を用意したが、結局姉は翌朝まで帰らなかった。
「結局→帰らなかった」も長いかな。
私は、姉が早く帰ってくると思って夕飯を用意したが、結局、姉は翌朝まで帰らなかった。
「思って→用意したが」も長い?
私は、姉が早く帰ってくると思って、夕飯を用意したが、結局、姉は翌朝まで帰らなかった。
まあどれでもよいやね。

独立した接続詞(「しかし」とか「従って」とか)がある場合も、同じように後の述語に係るとして扱えばおっけー。

読み間違いを防ぐのにも有効


こちらにとてもよい例があるので拝借します。

N1kuMeet5:[書籍]読みやすい文章にする効果的なひと工夫|書籍「頭がいい人の文章の書き方」|読み違いを防ぐ工夫をする

例文:
「妻は鼻血を流しながら逃げ出した私を追いかけた」
鼻血を流してるのが妻なのか私なのかが曖昧な文です。妻が流してるなら、
  • 妻は→流しながら
  • 鼻血を→流しながら
  • 流しながら(接続助詞)→追いかけた(妻は鼻血を出しながら追いかける)
  • 逃げ出した→私(を)
  • 私を→追いかけた
となり、「流しながら→追いかけた」が長い矢印になるので(図は省略、自分で書いてみて!)
妻は鼻血を流しながら、逃げ出した私を追いかけた
になります。もし私が流してるなら、
  • 妻は→追いかけた
  • 鼻血を→流しながら
  • 流しながら(接続助詞)→逃げ出した(私が鼻血を流しながら逃げ出す)
  • 逃げ出した→私(を)
  • 私を→追いかけた
となって、長い矢印は「妻は→追いかけた」ですから、
妻は、鼻血を流しながら逃げ出した私を追いかけた
となります。

全部に打たなくてもいい


長い矢印があるときに矢印の根元に打つ、が目安ですが、そういうとこ全部に打つと多すぎることもあります。
「私は昨日いつもの電車に乗って学校に行った。」
  • 私は→乗って
  • 昨日→乗って
  • いつもの→電車(に)
  • 電車に→乗って
  • 乗って→行った
  • 学校に→行った
長い矢印は「私は→乗って」「昨日→乗って」で、その両方に打つとこうなる。
私は、昨日、いつもの電車に乗って学校に行った。
これでもいいけど、ちょっと前半に読点が多い気がする。こんな時は、下のように読点を省きます。
私は昨日、いつもの電車に乗って学校に行った。
「私は」は主語だから述語に係る。直後の「昨日」に係ることはない。このように読点を省いても、読み手は「私は→乗って」だと分かってくれます。

「読点を省いても、読み間違えられず、分かりやすいままか」を判断基準にするとよいでしょう。


文節の切り方は適当でいい


文節ってのに正しく区切るのが大変だ、と思ったかも知れません。でも、あまり気にしなくてよいのです。

はじめの例
私が知っている読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれです
では、本当は2つの文節からできている「知って・いる」「分かり・やすい」を以下のようにひとまとめにして扱いました。


でも、下のように(正しく)文節に切っても、


やっぱり「いる→打ち方」が長い矢印になって、結果は同じ「私が知っている、読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれです。」になります。

だから、適当に切りゃいいのです。てきとーに。


読点を打つのが難しかったら、元の文が悪いのかも


同じ例
私が知っている読点の分かりやすい打ち方のひとつはこれです。
に、「すごく」を足して少し長くしてみます。
私が知っている読点のすごく分かりやすい打ち方のひとつはこれです。


「読点の→打ち方(の)」という矢印も長くなって、読点を打った方がいいかな、という気にもなります。打つとこうなる。
私が知っている、読点の、すごく分かりやすい打ち方のひとつはこれです。
うーむ、これだと文の長さに比べて読点がちょっと多いかな…

読点を打つのが難しいと感じるのは、大抵の場合、元の文を改良した方がいいというサインです。文を分けたり、語順を入れ替えたりして改良します。

この例文の場合、「読点の」と「すごく分かりやすい」を入れ替えて
私が知っているすごく分かりやすい読点の打ち方のひとつはこれです。
とすれば、


長い矢印は「知っている→打ち方(の)」だけになり、そこにひとつ読点を打つだけで、
私が知っている、すごく分かりやすい読点の打ち方のひとつはこれです。
と読みやすい文になります。


まとめ


てなわけで、長い文で読点を打つ場所を見つける手順はこう。
  1. 文を文節のようなものにてきとーに切る。てきとーでいいんです、てきとーで。
  2. 「係る」関係を矢印で書く。複数に係ってるっぽかったら近い方に。
  3. ちょっと長いなぁと思う矢印の根元に読点を打つ!
  4. 読点が多いと感じたら、誤読されず分かりやすい範囲で、読点を省く。
  5. 読点を打つのが難しいと感じたら、文そのものを見直す。
慣れてくると、矢印を書かなくても「これちょっと遠いな」と分かるようになります。

実は、これが読点を打つ場合の全てではありません。倒置とか、他にもいろいろあります。でもまあ、これを教えた学生はその後そこそこまともに読点を打てるようになったので、これだけでも結構役に立つかと。

文の長さに対して矢印の長さがどのくらいだったら読点を打つか、ある文と別の文で読点の打ち方をどう変えるか(あるいは変えないか)、そのへんは好みやバランス、あるいはセンスですね。

「山が、動いた。」って、たまに書くとかっこいいしw


関連リンクなど


この記事は、実用的な読点の打ち方を説明するために書いたので、国文法的には正確じゃありません。文節や文節間の修飾など、正確な文法を知りたいなら、他の文書を見て下さい。

例えばこの↓サイトは分かりやすそうです。私も参考にさせてもらいました。

中学国語系エンターテインメント 中学国語のツボ|中学国文法講座

攻める気分の日には、文節を「〜ね」でなく「〜よ」で切れってのには笑いましたw

2012年6月19日火曜日

本棚は誰のもの

著作権の強化は、最近の違法ダウンロードや自炊代行問題に始まったわけではなく、何十年も前から続いているんだよな。ソフトウェアが著作物になるとか、レンタル店にビデオの複製機を置くことが違法化されるとか、そんなことがずっと続いて、権利が強くなる一方だ。全く歯止めがない。

最近は「知的財産権」という言葉が作られて、その言葉に合わせるように権利が強化されるというよく分からない状態になっている。

レコードレンタルが現れたとき、賢いけどずるい商売だなぁと思った。ビデオ複製機は、そりゃレンタル業じゃなくて複製業だろと思った。そういうのが規制されるのは、まあ仕方ないし当然と思ったよ。

でも最近の規制の強化、権利者が公権力の力を借りてまで個人が持つ情報に手を伸ばすという状況には、それとは違う気持ち悪さを感じるんだ。

目の前に、壁全面の本棚がある。マンガはだいぶ捨ててしまったけど、小学生のときに買った工作の本から、最近買った法律の本まで。時間をかけて少しずつ読み、ことあるごとに読み返し、大事なところに線を引いたりして、中身とその本自身を自分のものにしてきた。自分の血肉にしてきた。

そう思ってた。

いま見える本のうちいくつかは、自炊代行に出してもスキャンしてもらえない本だ。何十年も前に買ったものもある。いや、長い一覧を見なければ、どれが自炊代行に出せない本か正確には分からない。

それらの本は、私が自由にできない本だ。つまり、私のものでない本だ。ある使い方だけが著者によって許された、借り物だ。これまでかけてきた本代は、本の利用料だった。

私の本棚は、つまり私の知は、私の血肉などでなく、借り物だったのだ。

私は筒井康隆の本が好きだった。何冊も買った。気に入ったものはぼろぼろになるまで読んだ。学生になくされても新しく買った。私は宮城谷昌光の本が好きだった。文庫化が待てずハードカバーで買った。

今、目の前に並ぶそれらの本に、愛着を感じてない自分がいる。知は誰かに所有されており、私のものにはならない。いくら読んでも、たとえ一字一句暗記しても、それは著者の所有物なのだ。それが「知的財産権」なのだろう。

私の知は私の一部であり、私の知の大半はこの本棚だ。よい本を読むとき、これまでは著者に感謝の念を抱いてきた。しかし、著者が私の体の一部に手を伸ばしてきて「これは私のものだ」と主張するとき、どうして感謝できよう。

正直、テレビでそのような作家を見ると、敵意を感じるようになってしまった。司会をやってたりすると最悪だ。

私はそれがとても悲しい。

これは、必要なことなんだろうか。

私は、私の本棚を取り戻したい。私の知の歴史であり現在であり、私自身の一部である、愛せる本棚を取り戻したい。

それとも、もうそれは叶わないんだろうか。

2012年6月15日金曜日

「違法ダウンロード」と人権

はっきり言って不満なんですよ。著作権サイドからしか問題を見ない議員の人々に対してだけでなく、人権の擁護を標榜する日弁連に対しても。本当に人権のこと考えてるのか、と。

私も本を多少出版してわずかにせよ収入を得ているから、著作権の意義だって分かってる。でも同時に、基本的人権を持つ一国民として、著作権によって人権が不当に侵害されるのは許せないのだ。そして、「知的財産権」を当然と思う人々が、無自覚に(じゃなければもっと怒りを感じるが)人権侵害を是としているのも。

何がどう人権侵害か、と言われそうだな。

表現の自由、言論の自由は皆が認める人権だよね。それは情報を伝える権利だ。情報を自由に伝えられないと、幸福追求を妨げるし、民主主義も機能しない。出版の自由や通信の自由もそうだ。

そしてもらった情報を使って自分で考えて、幸福を追求し、意見を定め、投票し、また情報を伝えて他人の幸福と民主主義に尽くす。そのために思想の自由や内心の自由がある。公権力によって制限されてはいけない。だよね。

わかった。これらの自由はあるとしよう。

じゃあ、本を読むことを禁止されたらどうか。出版は自由だ。お好きに意見を述べ、表現をしなさい。でも読んではいけないよ。あるいは放送が自由でも、テレビの視聴が禁止されたらどうだろう。

それじゃ表現や言論が自由だって意味がない。情報を受ける自由がなければ、情報を発信する自由があったって何の役にも立たない。

授業でノートを取ることが禁止されたらどうか。好きな授業を聞きなさい。でもノートを取ってはいけないよ。あるいは本を所有することが禁止されたらどうか。本を読んでもいいが、読み返せるように所有することは禁止する。

それではいくら思想の自由があっても、まともな思想などできない。人間の記憶力は情けないほど弱い。それを補うために人は情報をとっておく。その蓄積された情報へのアクセスがなければ、幸福追求も、社会の改善もおぼつかない。

表現・言論・出版・通信の自由という「情報を送る側の自由」は、情報を受け取る側の自由がなければ意味がないものだし、思想の自由は、その思想の材料となる情報の保持の自由がなければ意味がないんだよ。

だから私は、「触れた情報を取得し保持する権利」は人権だと言ってるんだ。私の主張というより、表現の自由や思想の自由からの論理的な帰結として。(そうでないと言うなら、この権利なしに表現の自由その他がどういう意義を持つのか説明してほしい。)

日弁連には、会長声明を見たりしても、どうもこの視点が不足してるように思えてならない。捜査の過程でプライバシー侵害が起こる、ごもっとも。それも問題だ。でもその前に、(どのような経緯で公開されたにせよ)公開されている情報を取得し保持する個人の行為を禁止すること自体が人権の制限であることが見えないのか。

(小倉弁護士や共産党の宮本たけし議員はこの視点を持ってるように見える。小倉さんは例の日弁連の集会で「知る権利」という言葉を用いて主張していた。でもそれは無理だと思う。「知る権利」は、政府が持っている情報を公開させるという(私に言わせれば)基本的人権に含まれると言い切れない権利を主に表す言葉になってしまっていて、もう説得力を持たない。)

触れた情報を取得し保持する権利。この権利を人権とはっきりと認識し、その上での議論なら構わない。表現の自由だって、名誉毀損などの他者危害に関しては制限される。同じように、情報取得と保持の自由という個人の人権よりも、その一度のダウンロードで著作者が失うと見積もられる金銭的利益の方が重いと皆が思うならば、人権の方を制限したらよろしかろう。

(念のため。ここで言う人権は、公権力に対する権利のことで、私人の間の話ではありません。ライブ会場で演奏を撮影するのがダメなのは、私人間の契約によるもの。「情報取得と保持の自由」とは無関係です。)

2012年5月15日火曜日

とりあえず「開業」したことになった

5月1日に「個人事業の開業・廃業等届出書」を税務署に出し、今日さらに「所得税の青色申告承認申請書」を提出して、これでまあ形の上では「開業」したことになりました。

実際の業務のためにはいろいろと準備が必要で、そのためにはお金を使わねばならず、それを経費とするには開業していないといけないわけで、実際の準備がようやくできる状態になったというわけです。

「個人事業の開業〜」の方は書くにも出すにもそう悩むところがなかったけど、「〜青色申告承認申請書」の方はちょっと悩みました。参考までに経験したことを。

まず、私は事業所を特に構えないつもりなので、「1 事業所又は所得の基因となる資産の名称及びその所在地」の欄はどうすればいいかと税務署で訊いたら、空欄でよいそう。でも事業所を空欄にすると、自宅兼事務所の場合とかに家賃の一部を経費にできないような気もする(私は今はそれをするつもりがないので)。

それから、起業のための相談会に行ってきたときに複式簿記をやる決意は固まったんだけど、「6 その他参考事項」の「(2) 備付帳簿名」をどうすればいいのか分からなかった。そこで、しばらく簿記の勉強をして数日帳簿をつけてみたところ、うちでは現金出納帳、固定資産台帳、預金出納帳、総勘定元帳、仕訳帳があればよさそうだと分かった。で、申請書でそれらに丸をしたものを見てもらったら、税務署のお兄さんがひと通り確認して、「うん、帳簿もちゃんと書いてあるね」と言ってくれた。勉強した甲斐があったなぁ…

「個人事業の開業〜」も「〜青色申告承認申請書」もそれぞれ2枚同じ内容を書いたものを持って行って、「控えがほしい」と言ったら、両方に青で収受印を押して、一方に赤で「控」という印を押して返してくれました。特に「個人事業の開業〜」の方は、屋号付きの銀行口座を作る時にこの控えが必要な場合がありそうなので、もらっておいた方がよさそうな感じ。

ちなみに簿記の勉強で読んだのはこれ↓(のひとつ前の版を図書館で借りて)。実務よりも原理に重点を置いて丁寧に説明してくれている感じ。自分に合ってたようで分かり易かった。

基本簿記入門
基本簿記入門建部 宏明、長屋 信義、山浦 裕幸

Amazonで詳しく見る

それから実際の仕訳を数こなしてみたかったから Nintendo DS のソフトを買っていまやってます。復習も兼ねて。3DS 本体は持ってなかったので…友達から借りたw

本気で学ぶ LECで合格る DS日商簿記3級
本気で学ぶ LECで合格る DS日商簿記3級Nintendo DS

Amazonで詳しく見る

まだまだ印章を作ったり銀行口座を開いたり名刺を作ったり、やることはいっぱいです。頑張ろう。

2012年5月10日木曜日

違法ダウンロードの刑罰化と〈知る権利〉

おととい5月8日に日弁連が主催した集会「違法ダウンロードに刑事罰が必要?」の動画が Ustream にあって、観ることができます。90分と長い。togetter にツイッターでの実況もまとめられてるので、概略を知るにはそれを読んだ方がよいかも。配布資料をスキャンした PDF は津田大介さんが公開してくれてます

で、90分の話を聴いてみて、論点はすでにほぼ出揃ってるんだなと感じました。あとは判断だけだと。

というわけで、忘れないうちに大事だと思ったことを、自分のためのメモを兼ねて、書いておこうと思います。動画に関連して、でも主にそこで(あまり)言われてないことについて。

まず、これがダウンロードを違法化している著作権法の条文。
第三十条  著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
(一、二は略)
三  著作権を侵害する自動公衆送信(国外で行われる自動公衆送信であつて、国内で行われたとしたならば著作権の侵害となるべきものを含む。)を受信して行うデジタル方式の録音又は録画を、その事実を知りながら行う場合
論点のひとつは、「何が犯罪か」が明らかかどうか。(動画の中に、罪刑法定主義とか構成要件という専門用語で出てくる。)それが明らかに規定されていて、それに合った場合しか罰してはならない、という原則があります。

ある人の行為が「著作権を侵害するアップロードと知って、それをダウンロードする」だったか、それは確かに白黒つけられます。調べれば。でも私はこの規定、ダメだと思う。

動画内では、「その事実を知って」かどうか判定する前に逮捕状が出されざるを得ない、というようなことが言われてる。それも確かに大問題。さらに、容疑の段階でHDDが押収され情報の出どころが調べられかねない。これも大問題。まるで違法な文書を入手した疑いがあるからと自宅の本やノートを一切合切押収されるようなものです。

でもそれ以上にこの規程が問題だと私が思うのは、あるアップロードが「著作権を侵害する」ものであったかどうかは、裁判によらなければ最終的に決まらない、つまり個人がその場(ダウンロードという行為をする時点)で到底判断できるものじゃないってこと。

個人が行為をする時点で分からないものを犯罪の要件にしたら、何が犯罪か明らかじゃないでしょう。例えば、食料の違法な取引(というのがあるとして、それ)を阻止するために「違法に売買された食材を使った料理を食べたら罰する」なんて法律が作られたら、外食なんかできない。判断のしようがないんだから。

「(国外で行われる自動公衆送信であつて、国内で行われたとしたならば著作権の侵害となるべきものを含む。)」の部分なんてさらに判断できない。外国で、その音楽や動画がどのような経緯でアップロードされたのか分かるはずもないし、それについての裁判は行われないんだから、著作権侵害かどうかが最終的に決まることもない。

多分この規程は、「無料コンテンツは基本的に違法コンテンツである」という前提で作られたんでしょうね。松田政行弁護士の話からもそれが分かる(59:55くらいから)。「無料違法コンテンツ」をダウンロードするソフトの話…ソフトが、とあるネット上のコンテンツが著作権法的に違法かなんて判断できるはずがないよなぁ。そして1:00:15から、クローリングして利用者が所望する「無料コンテンツ、まあ違法コンテンツですね」と言っているし。

つまり立法者の考えはこうなんでしょう。「ネット上にある音楽と映像はそれが無料ならば違法と思えばいい。基本的に、無料コンテンツをダウンロードしなければいいのだ。」

だとすれば、もしもサイトに「合法です」と書いてあっても、恐くてダウンロードできない。自分のダウンロードが犯罪かどうかは、サイトについて裁判が終わるまで分からないのだから。そしてそれは、有料コンテンツだって変わりない。有料だから合法だとは言えないからね。

結局、何らかの意味で「信用できる」サイトからしかダウンロードできない。その「信用できる」サイトがたまたま著作権法に反してコンテンツをアップロードしたら…ダウンロードした私も犯罪者。あれれ。(訂正。犯罪者にはならないですね。違法アップロードかやっぱり判断できない、ってことで。)

しかし YouTube にも Ustream にも合法無料コンテンツなんていくらでもあるのになぁ。てかこの市民集会の動画がまさにそうじゃないか。これが違法アップロードでないって誰が判断できるんだろう。私には自信がない。松田先生、いかがですか?(笑)

ついでに。松田弁護士は0:45から1:05まで「なぜ自分は民事違法化賛成、刑事違法化反対か」を説明していて、大量ダウンロードツールの販売に対して賠償請求ができることは一定の社会的正義があると考えたから、と言ってるけど、ならばそちらを違法化するべきだったと私は思うし、実際の賠償請求を想定しなくても個人のダウンロードを著作権侵害と規定していることには変わりない。

で、そもそも個人のダウンロードを著作権侵害とすべきなのか。

松田弁護士は著作権法の「私的利用自由の原則」について説明してる。小倉弁護士は19:00くらいから「知る権利」との関係を話してる。面白いことに、松田弁護士の資料を見ると(15-16/64ページ)「個人生活の中に法は入るべきではない」とか「文化、情報に関する著作権法は、できるだけ個人の自由を保障すべきである」とは書いてるけど、はっきり「知る権利」とは書いてないんだな。

やっぱり私はここが一番のポイントだと思う。

著作権が重要な権利であれば、私的複製は禁止されてもいいはず。でもなぜ私的複製が許されるのか。それは、より強い権利、つまり基本的人権が存在して著作権を制限していると考えるのが自然だと思うのだ。

知る権利」という言葉は、いろいろな意味で使われるし(政府が持ってる情報を要求する権利という意味)、それだけでは権利の内容がよく分からない(いくら「知る権利」って言ったって、他人が知ってる情報を何でもかんでも「知る権利」なんてない…それはむしろ他人の内心の自由を侵害する)。

そこで私は、著作権(とか児ポ法)との関係では

「自分が触れた情報を取得し保持する権利」

を人権として考えるといいのではないかと思ってる。この(ウィキペディアの説明によると「消極的な」)自由権をここでは〈知る権利〉と呼ぶことにします。ここで情報に「触れる」とは、システムに侵入して盗みだすとか他人の家に盗聴器を仕掛けるとかの違法な行為によるものは当然含まず、あくまで行為そのものとしては問題ない行為で情報に接することを意味します。

ここで大事なのは、対象となる情報がどんなものかによらず〈知る権利〉を認めるということ。そこで対象となる情報を限定できると、公権力に都合の悪い情報を制限できるようになるので、人権という考え方に合わないから。

なお、普通は「知る権利」に含まれる、国家が持つ情報を国民が要求する権利は、私がここで言う〈知る権利〉には含まれません。このような情報要求権を自由権に分類するのは無理があると思う。

なぜ〈知る権利〉を人権としてよいか。私はこれは、思想の自由から自然に導かれると思う。情報が得られなければ思想など持てない。得られる情報が制限されるなら思想の自由なんてない。よね。

では〈知る権利〉は制限されてよいか。表現の自由が例えば名誉毀損罪や侮辱罪になる場合には制限されるように、〈知る権利〉も制限される場面があって不思議はないと思う。ただし、〈知る権利〉が人権であるならそれはとても強い権利なので、他人の人権と衝突する場合に公共の福祉によるか、名誉毀損や侮辱のように他者に損害を与える場合―いい例が思い浮かばないけれども―に制限するに留めるべきだと思う。表現の自由や言論の自由その他の人権と同じように。

それともうひとつ。公権力と関係なく、私人の間で自由に契約が行われるなら、その契約は守られなければならない。例えば、中で写真を取らない録音をしないという条件で、ライブ会場に入れてもらう場合とか。

さて、いま仮に、「違法ダウンロード(=違法にアップロードされたものをダウンロードすること)」を禁止する規定をこれから作ろうとする時点に戻ってみる。〈知る権利〉は、違法でない行為でどのような情報でも取得する自由を言っている。だから、違法ダウンロード禁止が是か非かは、〈知る権利〉と著作権の間の調整だったはずなのだ。

〈知る権利〉は人権。片や著作権は、文化振興のインセンティブのために、誰かに利益を与えるための権利。このふたつの権利が衝突する時に、前者を制限することは妥当だろうか。

この制限は例によって2段階で行われる。まずは罰則なしの違法化、次が刑罰化だ。

第1段階、罰則なしの違法化―これは最近よくある手で、私はこのやりかた自体が罪刑法定主義に反する脱法行為(いや、脱憲行為と言うべきか)だと思ってるんだが―によって損害賠償責任を負わせたこと。松田弁護士は個人に対する請求権は想定していなかったというようなことを言ってるけど、日本が法治国家なら、この規程は明らかに違法ダウンロードした個人に損害賠償責任を負わせるものだ。そう書いてあるから。なら、人権である〈知る権利〉を行使した個人が、他者の人権との調整でもなく、契約にもよらずに、損害賠償責任を負うってことだ。著作権は、そこまで強い権利なのか。

第2段階、刑罰化。これは、〈知る権利〉がもともと公権力に対する人権である(と見なした)ことから、明らかに人権侵害だ。

また長くなりましたが(汗)、まとめるとこんな感じ↓です。
  • あるコンテンツが違法アップロードされたものかどうかを、ダウンロードする人が判断するのは困難である。ダウンロード違法化の規定は、形の上では構成要件を明確に示しているように見えるが、行為者がその時にはっきり判断できないので、罪刑法定主義に照らして疑問が大きい。
  • 著作権法に例外として規定されている私的複製の許可は、〈知る権利〉という人権からの要請と考えると自然である。
  • 〈知る権利〉は思想の自由から自然に導かれる。
  • 〈知る権利〉が人権だとすると、ダウンロード違法化は著作権を強め過ぎだし、刑罰化は人権侵害なので許されない。
逆にもし〈知る権利〉が人権でないとするなら、著作権という権利を制限する理由はほとんどないと思うんですね。私的複製はどんなものであろうが全て罰則付きで禁止していいはずだと。そして、権利者は権利を主張し、ネット民と日弁連はそれに反対し、その力関係と多数決だけで落とし所が決まるだけだと。

だから私は、そこに〈知る権利〉を置いて、

私的複製は〈知る権利〉の行使、つまり基本的人権の行使である

と見なしてみたい。だからと言って私的複製は無制限に許されるべきといきなり主張するわけではありません。でも、このようにそこに人権があると認めることで、話が権利の間の調整になる。それによって、それぞれが自分の利益のために主張する声の大きさで決まるという望ましくない決め方を避けられるといいなぁと思うのです。

そういや電波法とか電気通信事業法とかでも、通信の傍受はたしか禁止されてなくて、それを漏らしたりすることが禁じられてたと思うなぁ。最近関わってないけど。ここらへんとも〈知る権利〉は一貫してると思う。

というわけで、あとは判断するだけだと思うんですが、どうでしょう。〈知る権利〉は人権である。私的複製は〈知る権利〉の行使である。この2つを私は主張してみましたが、皆さんはどう思いますか。